1975 「美学校」 第一期小杉武久音楽教場。
7月より松戸に併設されたエレクトロニクス工房へ。
主任講師は藤田育夫(小杉使用のVCF制作者)。
1976 集団即興演奏グループ「イースト・バイオニック・シンフォニア」に参加。翌年脱退。
美学校第二期小杉教場にてエレクトロニクス工房を担当
1977 芦川聡(シンセ)、服部達郎(エレクトリックバイオリン)のデュオに音響エンジニアとして参加。フリースタイルのチェリスト福田正則のための4CH音像移動システム制作。
「Hot Breath」オールナイト、松本清志、関口孝、村松基安とのコラボレーション。
「即興演奏のための四則演算」音響システム制作。
ギタリスト磯ヶ谷正信の依頼により、ゲート及びADを付加した「リングモデュレータ」制作。
1978 現在「サボテン」のべーシストである宮川いずみの依頼によりシンセサイザーを制作。
東京椎名町「消しゴム」にて即興のための音響システム「ソラリスの海」(テープループをメインにした作品)
藤田育夫、芦川聡と電子音響工房「BAS」を結成。(1年後に解散)   
白樺画廊、グループ展にてビデオシンセサイザーの展示。「BAS」での最初で最後の活動。
後藤治氏主宰「GESS」にミキシングエンジニアとして参加。(大駱駝艦のための音楽)
1979 服部達郎、松本清志を基体とした「HETERO」シリーズのプロデュースを開始。
島田璃里、小杉武久によるサティ「ジムノぺディ、グノシェンヌ」の録音を椎啓と共に担当。
この音源は後に「記憶の海」としてリリース。
1980 島田理璃、横浜今野アートサロン「迷宮のエリック・サティ」シリーズに音響エンジニアとして参加。
池袋「ル・ピリエ」PLANETARY・MOTION'S PERFORMANCE、2夜分のプロデュースを担当(片岡昌の人形とフリーJAZZの共演)(小杉武久、浜田剛爾、吉村弘、江口正彦、他による集団即興)
1981 オーストラリア、メルボルン。即興演奏のためのシステム「looking Through a Glass」制作
日本デザイン会議仙台、音響システム「Here There and ・・・」制作
1982 島田璃里、横浜今野アートサロン「迷宮のエリック・サティ」シリーズに音響エンジニアとして参加。
島田璃里、鈴木昭男によるサティ「ジムノぺディ、グノシェンヌ」の録音を担当。
(この時の音源は未発表であり、またその音源は行方不明である)
1983 島田理璃「第二期迷宮のエリック・サティ」渋谷ユーロスペース、音響エンジニアとして参加。
スタジオ200小杉武久「周波」、電子音響BOXの制作および演奏(小杉、服部達朗と共に)
代官山、島田璃里エリック・サティコンサートのための「家具の音楽」をモチーフにしたマルチ・チャンネル電子オルゴール制作。
横浜イギリス館「迷宮のエリック・サティ−白い食卓」にて「電子回路による白い食卓」を椎啓と共作。
1984 川仁宏のパフォーマンスに音響エンジニアとして椎啓と参加。
西武デパート船橋Week End Theatre シリーズ、「映画パワーズ・オブ・10を巡って」プロデュース。
同シリーズ、「現代漫画の現在」のプロデュース。
同シリーズ「センサー回路と音楽を巡って」のプロデュース。
浜田剛爾のパフォーマンス「遺伝子」に音響エンジニアとして参加。
ロックバンド「サボテン−いつもある」EPアルバムをディレクション。
1985 「筑波科学万博」、子供広場「地球のシンフォニー」音響担当。
神戸「水の博覧会」、テーマ館にて「習字ロボット」プロデュース、
「水のQ&A」コーナー制作担当。
渋谷エピキュラス、浜田剛爾のパフォーマンスにエンジニアとして参加。
銀座ヤマハホール、ケージ「冬の音楽」(20台のピアノと20人の演奏)、ジェフスキー「パニュルジュの羊」録音およびジェフスキー作品のためのカウントシステム制作。
銀座の画廊にて、即興演奏者のためのマルチ・チャンネルシステム「With a Litle Help」制作。
1986 浜田剛爾、椎啓とのコラボレーション「音の風景展−1」、愛知県常滑市。
青森八戸、浜田剛爾のパフォーマンスにエンジニアとして参加。音響装置「トラッピング−罠」制作。
福島県の画廊にて服部達郎、上杉貢代(舞踏家)コラボレーションに音響エンジニアとして参加。
1987 「音の風景展−2」、東京夢の島。
音響パフォーマンス「Cold Turkey with C's Dinner」。
京都西部講堂、浜田剛爾のパフォーマンスに音響エンジニアとして参加。
1988 島田璃里、今野アートサロン「エリック・サティコンサート」のためのレコード素材を基にしたテープコラージュ作品の制作。
  1989〜2002までは主にコンピュータ・グラフィックに従事し、この間、音楽から離れる。