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 1972年。10月29日、午後4時25分。西ベルリンの壁の前に立ち黒いアイマスクをして左手を壁に触れ長い間歩き続けた〈嘆きの壁〉が私の最初のパフォーマンスだった。 〈嘆きの壁〉といっても、長い間ユダヤ教徒によって繰り返し接吻され続け表面が唇の形になり アントニオ・タピエスの絵画のようなマチエールをもった壁ではなく、 古代中国、唐の時代につくられたというタクラマカン砂漠にある土壁のことでもない。 私がいつも魅かれるのは事象ではなく言葉である。  本題は“Beautifull Rosers”。翻訳すれば“美しき敗北者”とでもいうべきか。 訳者の言葉を借りれば「ユダヤ的色彩とシャガールを思わせる…」ことを考慮にいれてあえて 『嘆きの壁』と異訳したというカナダの詩人でありブルース・シンガーが書いた本の題名である。 作者名、レナード・コーエン。  レナード・コーエンの歌を最初に聴いたのは1971年だった。 黒いセーターと同色の細身のスラックス。GIカットよりさらに短く刈り込まれた髪の毛がストイックで、 その声は渋くつぶやくようであった。聴いたのはレコード。全体の印象はジャケットからの想像である。 ハード・ロック全盛の時代にあっては異色であった。 フランス訛の英語がブルースに似合うと思ったのはその時である。ストイックな印象はグレン・グールドにも 重なってみえた。〈嘆きの壁〉は訳者がいうほど「ユダヤ教的色彩とシャガールを思わせる…」という感じは なかった。イメージの洪水はむしろ60年代から70年代初期のウィリアムス・バローズやヘンリー・ミラー の饒舌さに似ている。『冷房装置の悪夢』と『裸のランチ』と『ナオミ』をシェーカーに入れてやや甘口の メープルシロップをまぜた語り口だと思えばよい。ゴッチック体やイタリック体が要所に挿入され、その上、 詩や日記や、私小説風、SF風、フィクション、戯曲から評論のスタイルまでゴチャゴチャにつめこまれた一 冊のコンクレート・ポエム詩集のようだった。乾いた感性はのちのトム・ウルフの『モーテル・クロニクル』 を連想させた。いつだったか、友人の小杉武久が「ニューヨークのゴミはゴミまで美しい。」といったことを ふと思い出した。一冊の本がそのままミックスド・メディア的であり無数のチャンネルをもつテレビジョンの ようだった。  パフォーマンスのことを書こうと思った時この〈嘆きの壁〉のことを想い出した。小さな私の部屋で埃をか ぶっていたレナード・コーエンのLPをひっぱりだして何年ぶりかで聴いてみた。相変わらずのセクシーな渋 い声と、弾丸のようなスピードで飛びだす様々なイメージがノスタルジックに私の部屋にあふれる。だが、い うまでもないことだが、私のロゴスとパトスの距離は日本とカナダより遠い。レナード・コーエンは詩で肉体 を語っていたが、私は肉体で詩を語りたいと思っている。いや詩人ならばその逆だというかもしれない。が、 私は詩人から転倒しているからその距離は痛いほど遠い。言葉はいつもラジカルで在ろうとするが、ラジカル な存在は言葉に限らない。という理由で、私の肉体は言葉から遠い。肉体を埋めあわせる言葉があるとすれ ば、それは行為だけである。行為だけが新しい言葉を生み肉体のすき間を埋めてゆくという想い。だから、こ の肉体はいつでも幻想のジグゾー・パズルのようなものだと思うことがある。欠けた絵柄はどこへ行ったの か。全く!書くという行為は人生の埋めあわせにすぎない。自分の中にある他人をあげつらうことだ。しかし それも又一つの転倒である。結局他人をあげつらうことは自分をあげつらうことだ、という理由で「君はいつ も他人のことばかり言っているが、結局それは自分のことを言っているのだ。」と5年前の正月の酒の席で友 人の三浦雅士は私をあげつらった。勿論これは彼の専売ではない。連想するのは〈死ぬのはいつも他人ばか り〉と言ったマルセル・デュシャンの諧謔にとりつかれた感想からの引用であるのはいうまでもない。  すなわち、書くことは肉体の引用、断片の拡大、記憶のシュミレーション、現象のメタボリズムによって描 かれる〈私〉というやみがたい病についてのカルテに他ならない。ブルース・シンガーは言葉によって肉体を 美しくみせる。とすれば肉体によって言葉は美しくなるのだろうか。
ベルリンの壁
 歴史が突然何の前触れもなく崩れることがある。そうした瞬間を目の前にすると、ほとんど一切の想像力が 無力に思えることがある。別の言い方をすると、前史の想像力が死んで後史の想像力が生まれる。壁という分 水嶺といいそれはいつでも言葉のかたちを含み、時のかたちを孕んでいるといってもよいのではないかと思 う。その予感のかたちが壁というものだろう。  1989年11月9日。夜半の2時すぎ。私は硬いベッドの上でいつものようにテレビのチャンネルをリモー ト・コントローラーでガチャガチャといじっていた。突然臨時ニュースが飛びこんできた。東西ベルリンの壁 が壊されていることを伝えている。戦争を知らない私達の時代に残された数少ない記憶の痕跡のひとつがベル リンの壁だとすれば、私達の時代の戦争のデジャ・ヴュに連なるものが消えようとしているのである。緑青と金色とブロンズ色と灰色のゲートが微妙な王権的コントラストを描くブランデンブルグ門の前はさながら革命前夜であり、その無数の人々の頭上にテレビニュースのライトが真昼のようにふりそそいでいる。ハンマーを壁にたたきつける黒い皮ジャンパーの若いドイツ人が大映しになる。効果的なのはカメラの目の位置だと思う。やや斜め下からクローズ・アップ気味にハンマーと男の目を追う画面づくりはカメラ心理学の最上のテキストである。壊れる筈もない厚い壁にもかかわらず男は執拗にハンマーをふるう。カメラから伝わる壁の音は的確に人の意識の音である。テレビは今やありとあらゆるものの象徴のメカニズムであると思う。テレビが壁を壊しているのだ。壊すことは単に政治的プログラムにすぎない。宣言し、専門の土木屋達がきて巨大なハンマー・マシーンで一瞬のうちに壊した方が効率がよいに決っている。だが、政治はプログラムだが、歴史は効率ではない。歴史は効果なのだ、とテレビは伝えている。人間の非力な手の力こそが歴史のメカニズムだということをテレビは伝えている。いやたった一人のテレビカメラマンのカメラ操作こそが今や世界の分水嶺に立って、みえざる神の手のように指揮をする構図がここにはある。
滑稽だがそれこそ実体なのだと思わざるを得ない。情報というみえざる神の手にゆだねられた現代の象徴がここにある。実存的なものの象徴が崩壊してゆく瞬間でもあった。
 その延々と続く壁の西側には切れ目なく、幾度となく塗り重ねられたスプレー・ペインティングによっておおわれている。描かれているというよりも意識が衝突をくり返してきたようなものである。西の壁はキース・ヘリングよりも自由に、ジョナサン・ボロフスキーよりも激しく、アンセルム・キーファーよりも意味深く、砕かれた断片はヨーゼフ・ボイスよりもラディカルで美しい。そうしたカラフルでポップな背景も夜の照明に浮かび上がる皮ジャンの男のハンマーのパフォーマンスを一層演技的なものにかりたてているかのようである。西側の自由は、暴力と、賢い商人と、テキストを持ったカメラマンによって〈壁〉を壊す自由に満ちあふれている。というメッセージが一斉に世界中のドラマ好きの人々に送られている。何万人、いや何百万何千万の観客がベッドの上でこの無料の史上最大のドラマを見たのだろうか。
〈壁〉は美しい。歴史の長さ、血の量の分だけ美しい。東と西の死の接吻によって描かれた絵画。国境と国境を隔てるのに政治はいらない。一枚のキャンバスとわずかの絵具があればこと足りよう。そして一本のハンマーがパフォーマンスの実体であろうとしている。
 つまり、パフォーマンスとは、世界という言葉の代わりに〈私〉の肉体を入れ換える遊びかもしれない。世界が男であれば女を注入し、世界が歴史で語られようとするなら私生活で語り、平和には暴力を与え、ミルクの代わりに血をそそぐことである。全てのディティールを世界の概念に代わってとり換えることといってもよいだろう。だが、結局この〈私〉の肉体も全てのディティールもどこかで世界に似ていることも確かである。換言すると、パフォーマンスがいつもどこかで世界に似ているのはそのためである。二重三重の入れ子構造のような〈私〉の血の行為がパフォーマンスの最初のスタートなのである。〈壁〉でいえば、ハンマーのパフォーマンスから世界を知覚することである。
 私は、私の中にある国境を想う。いろいろな言葉、いろいろな習慣、いろいろな階級、いろいろな宗教、いろいろな神。私の国境はそうしたものが集まりせめぎあっているのである。私の肉体がぎしぎしと痛む時、私の国境では弾丸が飛び交っている。私のペニスが勃起するのは、国境をこえた愛がささやかれている時である。幾百万とない細胞が毎日毎日細胞と細胞の人民戦争を繰り広げ、やがてその累々たる細胞の死を踏んで肉体の未来が築かれてゆく。そうした国境にやがて一本のレールが敷かれ、轟音をたてて歴史という名の列車が生命という名の終着駅に着く、という言い方はあまりにも詩的だろうか。  全く!どのチャンネルも明け方だというのに〈壁〉〈壁〉〈壁〉である。いや本当の〈壁〉ではない。〈壁〉に群がる人々の顔、顔、顔、というべきか。こうしてべルリンからのニュースをみていると、ふとリーフェンシュタールを私が嫌なのは多分押しつけがましい美意識のせいなのだと連想する。整然とした行進が今や無秩序な行進に変わり、旗がハンマーに、軍服が貧しげなシャツに代わっただけかもしれない。これはいわばみせかけのアイデンティティの回復という謎を生む。否、アイデンティティそのものが実はみせかけによって成立してきたのではないか、という問。人はテレビの前で無関心ではいられない存在であることと同様に、今や誰も〈壁〉の前で無関心な人はいないのであろう。男は〈壁〉にハンマーを振るっているのではなく、テレビに向かってハンマーを振るっているのではないか、というパラドクスが奇妙に現実的実感である。  世界は劇場なのである。テレビのフレーム。新聞のみだし。デザイニングされた美しい広告。人は物語なしには生きてゆけない。役割を演じることによって“人生”を感じるのである。もしも貧しければドフトエフスキーのように演じ、永遠の謎があればカフカにならい、死ぬ前はカミュのひそみを信じればよい、と思わずにはいられない。勿論、豊かで人生を満足して、さて物足りなければシェークピアはお好き!とでもいえばよい。書けない文学者はマルクスを読むだけでよい。今さらいうまでもないが目が悪ければ茶の湯に血道をあげるのも一考である。そして、思想と技術のない場当たりのパフォーマンス・アーティストにとって必要なのはとりあえず引用とボディ・ビルというのは、勿論皮肉ではあるが、とかく、ともあれ人間は世界という劇場で働く俳優とその一座である。
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