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最初のパフォーマンス
ヨーゼフ・ボイスと出会う
1972年。ベルリンの<壁>は彫刻のようだった。
 この前の年の秋の終りに私は濃紺のパスポートと2枚の黒いブリーフとやや厚めのB4版のコクヨの大学ノートと使い古しのペリカンの万年筆と中古のオリンパスカメラとレナード・コーエンの〈嘆きの壁〉を小型の革鞄に入れ、懐中には3万円と少しの小銭で何となく最初のヨーロッパの旅へ出た。何となく、という気分ではあったがそれ程気楽なものでもなく、まだみぬ税関の手続きや街中が一面の横文字の国へ行くという不安が紅毛金髪の幻想と重なりあって、平静さの陰でじくじくしていた。しかし本当のところ、私には何もなくすっからかんであったのかもしれない。いつだって旅は着古したレインコートのように体になじむものだという思いもあったので、そうした不安は一種の対面恐怖症のようなものであったと思う。その上時代はビート・ゼネレーション末期ハード・ロック全盛、ピーコック時代が混ざっており、貧しさとチャーリー・ミンガスのレコードさえ聴ければどこへだって行けるような気分だった。

 最初の滞在地。数ヶ月のロンドン滞在中に私がしたことといえば、少量のハシシをやったことと一冊の金色のカリフラワーの本をつくっただけのことであった。何せ資金がなかった。到着後すぐに帰りのチケットを売り、カメラを売り、アフリカ人とアラブ人の住む小さなアパートを借りるのがやっとだった。毎日毎日カリフラワーを食べていた。連続164日。それが今手元に一冊だけ残っている「金色のカリフラワー」ブックである。カリフラワーが金色なのは空腹のためカリフラワーのまわりが霞んでいたからである。何のことはない。空腹の幻想である。借りた部屋は天窓が一つあるだけで暗い部屋であったが、時々その窓から近くの家の女の子が弾く、バイオリンの音がしのびこんできて、その時だけは孤独の楽しみを味わった。カリフラワーからそろそろ解放されたいと思っていた時、偶然ロンドンで知り合いになったツーリスト・クラブの友人が、農協の団体の一人がケンジントン近くの銅像の上に登って足をすべらして骨折したため急に日本へ帰ることになり、チケットが一枚余ったので、日本円にして一万円位でわけてあげるというニュースを持ってきた。帰国したら一万円を払うという約束で私はまんまと、それもロンドン以後のヨーロッパ周遊チケットを手に入れることができたのである。私はその後農協の団体に混ざってヒルトン・ホテル豪華食事付きコースでパリ、アムステルダム、ブリュッセル、ケルンを回って行くことになった。しかし、結局日本には帰らず、ケルンで農協の気楽な人々に別れをつげて下りてしまった。ケルンからデュッセルドルフ、そしてボッホムへ行き、友人の家に二ヶ月滞在。さらに数ヶ月を周辺の旅に費やしているうちにかれこれ一年があっというまにすぎてしまうことになる。荷物は増えもせず、減りもせず、ロンドンとデュッセルドルフで生活のために作ったエッチングがいくらか手元にあるだけで相変わらずの貧乏には変わりはなかったのである。

 この頃の私にとってのゲイジュツというのは、ビートニクとロックとJ・ケージ的なものと、サイケデリックなものとプライマリーなものと、はじめのころのコンセプチュアル・アートとミニマルなものが混然一体、といえばきこえはよいが、要はカオスそのものであったといってよい。主にそうした現象はアーハン美術館から仕込んでいた。ニューペインティング以降のドイツの旗手の一人であるシグマ・ポルケにあったのもこの頃である。つまり、ゲイジュツの表層化した現象が体中のあちこちに巣くっており、考えてみると私はまるでゲイジュツのインデックス状態であった、ということができるかもしれない。私は今もそうであるが、インデックスとはいわないが、信念とか狂気とか熱意とからいつも遠い距離にいてゲイジュツをみていたように思う。あえていえば、ゲイジュツ家以外のものに転向する最初のチャンスであった。才能や信念や狂気に近い感情がゲイジュツの内在する資本だとしたらそうは思いたくはないがそうしたものに近い自己発見もヨーロッパ滞在中の発見であった。私自身でいえば、最も確かなのは明らかに自己の本質的性質に由来する凡庸さの中にその答えはあるにすぎない。逆説的ではあるが、才能や狂気を除けば、ゲイジュツも又政治や商取引と同じようにどこか胡散臭い社会的契約のようにみえることである。

 デュッセルドルフに滞在していた時、私はそれまでヨーゼフ・ボイスの名は知っていたが、実際にはその作品も本人もこの目でみたことはなかった。音楽家でのちに彫刻家になった友人の鈴木淳と一緒にクンスト・ハーレー(デュッセルドルフ市美術館)で小さなオブジェ展をみた帰りに、その近くにボイスのオフィスがあることを知ったのは、滞在して一ヶ月近くたってからであった。オフィスは教会の近くの葬儀屋の隣にあって、大きなショウ・ウインドーのような窓にはブルーのネオン・サインがぐるりと囲んでおり、その窓から奥を覗くと小さな机と中型のグリーン・ボードがイーゼルに立てかけられており、そのグリーン・ボードには大きな蛸の絵と何か記号のような文字と数字がいろいろ描いてある。チョークの飛沫がまわりに飛び散っておりまるで授業の終わった学校の中のような印象だった。鈴木淳という人は不思議な人で、芸大の作曲科の卒業試験のときに奏楽堂のピアノの上にゴロリと横になった、という人である。普段はショパンをパラパラと弾きながら石の彫刻をつくっている。私にいわせればその風景は音と形によって引き裂かれた故郷を喪失した旅人のようにみえた。そして心優しいハプナーでもあった。彼がデュッセルドルフに来て行った最初の仕事というのが〈ボイスの葬儀〉というものだった。何故ボイスの葬儀だったのかは聞かなかった。しかし右隣が葬儀屋で左隣が教会という風景をみて妙に一人で納得したことを覚えている。それはさておき、ボイスは留守だった。「きっと今頃は街のどこかで緑の党の為の演説をしているかもしれないナ!」という彼の言葉に興味を覚えた私は、それから彼の小さなオンボロのシビックで街中をあちこちと走り回った。通りの名前は忘れたが、やはりボイスは街の角に立っていた。というか、丁度巨大な灰色のベントレーに乗ったボイスが車から降りてくるところであった。薄いベニヤ板を無造作にうちつけて作った灰色の十字架のようなオブジェを肩に背負って、見慣れた写真と変わらぬフェルトの帽子と狩りや釣りに使うチョッキを着たボイスが降りてきた。ひとしきり演説は続いたが、まもなく再び何事もなかったようにボイスは十字架を仕舞い、パンフレットをトランクに入れて去って行った。私はドイツ語は全く解らないが、ボイスのボイス的シチュエーションは深く印象に残るものだった。ボイスに会えたのはそれから約二週間後であった。葬儀屋の隣のブルーのネオンのオフィス。ほとんど何を話したのか今はよく思い出せないが、そうした場面でもボイスというのは周辺に極めて強烈なドイツ的シチュエーションを発散させていたことはよく覚えている。硬質な麻薬のような印象である。
 肉と魚の民族の違いか、とふと思った。ゲイジュツの話しはほとんどしなかったと思う。話したのは当時の日本が抱えていた水俣病やイタイイタイ病などの公害問題や、経済の発展からくる環境問題をボイスは一方的に話し続けていた。ボイスとはこれが最初で最後であったが、死ぬ前にもう一度会いたかったと思うことがある。私がその後のパフォーマンスの為に出会った少数民族のことについて聞きたかったと思う。帰り際に「ベルリンの壁はみたことがあるかね!」とポツリといったボイスの言葉に魅かれて私、は私の記憶に残る最初のパフォーマンスを行うことになった。ベルリンの壁はドイツ人にとって重要な意味をもっていたとしても私には本質的に興味は無かった。しかし、一度は訪ねてみるものだという旅の記録のような気持ちが私をベルリンに向かわせることになった。それはすでにパフォーマンスの発芽の途中にあった私にとって、偶然というよりも何か目に見えないものに導かれるようなきっかけとなったのである。ポリティカル・パフォーマンス。エンパライメント・アート、アクション、シンボル、メタファーなど様々な言葉が急速に一つの目的に集まり出したことの予感がデュッセルドルフからハノーヴァー、そしてベルリンへ向かう汽車の中で生まれた。〈壁〉の物語。冷戦の象徴。自由のオブジェ。私の学生時代のほんのわずかのあの時の運動へのノスタルジー。サルトルの言葉。そうしたロマンチックなイメージとアクションに於けるラディカリズムにも似た行為の絶対性が連れだって私をベルリンへ向かわせたといっていいと思われる。

 
パフォーマンス・〈嘆きの壁〉
1972年、10月29日。私は夕方、西ベルリンの動物園駅で降りた。東ドイツのモノクローム的風景からまるでフェリーニの映画に出てくるような光と色彩の洪水の西ベルリンにくると、神経がちょっとパニック状態になる。パリやニューヨークや東京の喧騒と印象は違う。コントラストが鮮やかな分だけそうなのか、あるいは東についてのあまりに無味乾燥なイメージを創りあげた宣伝のためなのかは知らないが、その喧騒さはまるで死を前にした最後の祝祭のようにみえることだ。駅前のインフォメーションで宿の予約をした後、私は長い直線道路を歩いてブランデンブルグ門の前に立った。金色の女神が西を向いている。そこに続く壁は何の変哲もない灰色のコンクリートで作られ、今のように(いや今はすっかりなくなったが)スプレーペインティングもなく、ごく少しの落書き程度がみられる位であった。向こうの塔の上からは銃がみえる。ブランデンブルグ門から右に沿って歩いてゆくと壁際からわずかに線路がでており、その線路が西ベルリン側のアスファルトにすーっと消えている。そのことがより一層に〈壁〉が人為的に無理矢理つくられたことを意味しているようだ。木でできた塔もある。東ベルリンを見るためにつくられたものなのだが、ここに登るのはアメリカ人、日本人である。歴史は物語なのだと思う。歴史の引用。パフォーマンスは、引用と援用、象徴と隠喩、数々の寓話を組み合わせた一遍の短い私小説に似ていると思ったのはこの時である。一つの事象、一つの日常的な出来事に、どれ位数多くの歴史の文脈と民衆の解釈をみつけだすことができるか、という問いが、肉体を行為という手段でひきずってゆき、やがてそれが形となり、オブジェとなり、声となってゆく、という思いでもあった。

 私は壁際で拾った小さな黒い布をさらに半分にちぎって目隠しをした。靴は消えかけた線路のそばに脱ぎすてて裸足になり、ロンドンで買ったアーミースタイルのレインコートも脱ぎ、白いワイシャツ姿になった。(ずーっと後になって思ったことだが、本当は全裸になるべきだった。観客がいたらそうしていたかもしれない。全裸になることこそが壁抜けの術なのだと思った。無防備こそ現実に対する唯一のアンチテーゼである。)
 〈壁〉は大きな彫刻のように見えた。目隠しをした手というものは、目を開いている時よりももっと感触が深い。手に官能が宿っているかのように思われるのである。私はそのまま壁に手をあてて、裸足の足の裏で方向感覚をおそるおそる探りながら歩いていった。失われた明るさの中では時間も失われる。そして孤独がついでに道づれになる。自分の息や心臓の音までがよく聴こえるようになる。手は壁の様々な状態を微妙にかぎわけるのである。目で見えていたもの以上の様々の壁の言葉が手を通して伝わってくるのがよく解る。しかし、やがて私の手は少し熱くなり、それと共に鈍くなって、かすかに流れる血の感触と痛みだけが伝わってくるようになった。どれ位の距離だったのだろうか。正確にその後計ったわけではないが、今となっては手と足の痛さがそれを記憶しているのである。痛みが時のかたちとなってあらわれてきたといってもよい。

 それはパフォーマンスと呼べるものかどうか。今も解らないが、いつも私のパフォーマンスの略歴の一番最初にこのパフォーマンスを書くのは、ここには1972年当時の私を襲っていた何か得体の知れない衝動と旅のノスタルジーと、こじつければいかにも無数の理由が存在しそうな行為への意味がないまぜになった、私のゲイジュツへの羞恥心と告白のためである。明確な表現への具体的なプログラムのなかった私にとって、こうした〈壁〉の存在がどんなに魅力的に思えたか、といういわば飾りものの心理を分析すると、こういう描写になるだろう。
 だが、私はいまでもこのパフォーマンスが一番好きなのである。長い、それ以後のパフォーマンス活動と、伴う混乱や不条理劇の心理解剖のような場面を想う度に、この不明確さこそが何よりの糧である、と思うのである。このパフォーマンスには、私は後に〈嘆きの壁〉と名付けた、その嘆きはいうまでもなく私自身のことである。カナダの詩人にしてブルース・シンガーのレナード・コーエンの一冊の書物になぞらえれば〈最初の混乱は、あらかじめ用意されていた〉ということにもなるだろう。

 
パフォーマンス
―両性具有ともアンドログヌスとも―
 「あなたにとって最も興味深いパフォーマンスとは何か」ときかれたら私は〈私〉と答えるだろう。反対に最も興味をそそらないパフォーマンスについて問われたとしても、これも又〈私〉と答える。勿論これは換喩である。〈私〉という存在をめぐる換喩に他ならない。〈私〉という名詞の代わりに〈戦争〉といってもいいし〈愛〉とか〈都市〉とか〈生〉や〈死〉という言葉を入れ換えてもよい。つまりあらゆる事象がパフォーマンスの対象になるということをここでは言いたいのである。言い換えると〈私〉も含めて対象は全て他者的なものだということである。私が他者であろうとするとこうした言い方になると言ってもよいだろう。パフォーマンスを説明する時しばしば登場する言葉=概念として日常とと非日常という概念。この場合、日常というのは〈私〉で、他者は非日常ということになる。その他者である非日常性を感じることによってパフォーマンスは成立するという考え方である。この非日常という概念は同時に全ての日常という概念に属しているにもかかわらず分離されて考えられることが多い。本当は日常も非日常も人間は区別しているわけではない。それこそ全人格的にも空間的にも統一されているといっているといってもよい。にもかかわらず、こうした分離された概念があたかも存在するのは、多分人間というのはどこかで自分は特別でありたいという欲望の裏返しなのである。例えば、私たちの日頃の様々な活動や営為を考えてみると、あらゆる出来事は自分という存在の延長にあることがわかる。あたり前といえばこれ程あたり前のことはないのだが、そこにひとたび制度とか階級とか習慣という形式をあてはめた時、人はそこに自分を区別しているものを発見するのである。殺人も性的倒錯も汚職も宙に浮くヨガの行者も透視術も全ては個人的なものとしてはほとんど全き自由である筈なのだが、そこには非日常という概念、つまり特殊な視角をもちこむことによってのみ解放されるという幻想がある。つまり、幻想に支配されたいという欲望こそが日常と非日常、自分の中にある自由と束縛を分けているものと言わねばならない。殺人とか性的倒錯という特殊な出来事に限らない。日常の性生活、排便、時には特別な痛みを伴う病気さえも時には非日常性と結びつくことがある。この特殊な視角こそが現在ではパフォーマンスをパフォーマンスたらしめているように思われる。こういう言い方はどうだろうか。「私はあなたの日常を生きることは出来ない、という理由で、あなたからみれば私の日常は非日常的にみえる」と。あるいはその逆に「あなたの日常を私が生きることは出来ないとすれば、私以外の全ての現象は非日常的にみえる」のだと。これも全く同じ意味である。関係が倒錯しているともいえる。この倒錯された瞬間の認識がいわば特殊な視覚といえるのではないかと思われる。それは一口でいえば自分の中にある他者の存在に気がついた瞬間であろう。換言すれば、じぶんの中にある〈私〉と〈他人〉の距離を感じた時であり、自己同一の矛盾である。結局、一人の人間の中に起こる様々な現象ということであり、その限りに於いては論理的には非日常という概念は存在しないということになる。早い話が人はいつも他者なしに生きてゆけないという自然の摂理の変形が非日常という概念を生み出したということが出来るだろう。日常をもしも実体とすれば非日常とはその影のようなものであるといっていい。あるいは実体が嘘体でできたアンドロギュヌス(両性具有)的存在としてみると、一個の人間とは、自己分裂を起こした〈私〉の現象と名付けられるかもしれない。言い換えれば、パフォーマンスとは自己の中にある自と他の葛藤であり、同時にアンドロギュヌス的性格をもった人間の存在そのまま露わすことといってもよいだろう。自と他の距離の中間に無数のプロセスがあり、そのことが固有の現象としてあらわれる。こうして、パフォーマンスとは距離の物語を生み出す装置であることが解ってくる。何といったらよいか。パフォーマンスのことについて考えると決まって想像する一つのシーンがある。
 それは人間が始まりの頃、一個のふわふわした細胞がまだ完全な両性をもっていた時代に、突然宇宙の光によって刺激を与えられ、その磁場の形成によって分裂していった時の光景である。
 私にとってパフォーマンスとは、とりあえず〈私〉にとりついている百万の寓話、千万の隠喩、億万の象徴の分析によるノスタルジーやロマンチズムの再生に連なるところの距離の思想、距離のまなざしから生まれたように思う。
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