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パフォーマンス
―寓話ともアレゴリーとも―
 「いつも他人の事ばかり言うのは結局自分の事を語ることだ」と言った友人がいたが、確かに人はいつでも自分のことを知りたいと思っている。人間はいつもは不安なのである。不安のためにあらゆる関心事というのは自分を中心にして他者に結びついてゆきたい、という自己確認的現象であり代償行為のようなものである。つまり、〔〈私〉はいつでも他人の距離を測定する技師であり、計られた距離の数値によって他人をみている〕勿論、それは〈私〉の中にある他者の距離をも測定するという比喩にもつながっている。こうした考えをすすめていくと「他人を語ることは自分を語ること」だという結論は容易に導きだすことができるだろう。アレゴリーとはいい換えれば自分を語ることによって、自分の中の他者のみならず本当の他者の存在も導きだすことができるということといってもよいのではないか。つまり、他者という寓意に自らを重ねあわすことによって自らの存在を明確にするといってもよいだろう。
 この二つの〈他者〉の例を考えるまでもなく、パフォーマンスは観客という本当の他者と、演ずる自分を批評するもう一人の他者的な存在の自分がいる。自分―本当の他者―自分の中の他者と言う三角関係がパフォーマンスに於ける人間関係のアレゴリーである。いや人間関係というよりは心理的三角関係といってよい。パフォーマンスはこの三つの関係を露出する行為として考えられるだろう。そしてその関係を表す為にパフォーマンスはしばしば寓意=アレゴリーを用いてきた。寓意を用いるのはすでに説明したように関係が複雑だからであり、その複雑さに表情を与え感情を装わせ、認識を他者と共有するための準備として寓意は最も適した方法であったからといえる。つまり、アレゴリーとはパフォーマンスに於いて身体という記号に特有の表情を与える作業である。それは自らの身体に他人の比喩や象徴を託すことによって、自分と他者との関係を明確に語ろうとする意思の表明であろう。例えてみれば、身体にまつわる出生の日時や、名前、衣裳、言葉の感情、身振り、習慣などどれ一つをとってもアレゴリー的でないものはないといってよい。そもそも存在を意識するという行為というのは他人の比喩や象徴を通して可能となっているのである。裸の王様の寓話をもちだすまでもなく、人は生まれながらにして寓話的存在といってもよい。

 寓意。かつてアレゴリーの典型的な形式は王とその僕とか、君主と道化、権力者と民衆といった階級のはっきりした構造の中から生まれてきたのは周知のことである。しかし、今日のように極めて解りくい複雑な社会構造をもった世界に於いては、必ずしも階級や身分や経済的優位だけでは制度や人間関係を把握できないこともあって、アレゴリーは比喩を比喩として、象徴を象徴として単純に機能しきれなくなってきていることも事実である。アレゴリーがアレゴリーとして通用するのは、ある意味で単純な階級社会であり、民衆が声を全く失っている状態に於いてともいえる。しかし、今日では一体誰が王で誰が僕で誰が王冠を手にしている者なのかよく解らなくなってきている。だから、というわけではないが、アレゴリーも従来のような形式ではなく時代の中で変容され続けているのも確かである。アレゴリーとは本来明確な対象に向かって発せられる民衆の声なき声であった。王の声と道化の声は区別されていたのである。だがいまでは王も道化も同じ声で話し、さらに内と外がいつのまにかすり換っていたりする。ある者は王はもしかしたら自分なのかもしれないという幻想を可能にし、また富める者は自分が貧者よりも精神の下位にいるのではないかとおびえる。いたるところで精神のみならず階級的にも倒錯し、その倒錯者が新たな倒錯によって再び懐疑的になるという現象に立ちあっている時代では、アレゴリーは本来の役目を終えてしまった、といってよいだろう。その為、現代のアレゴリーはまず内なる声の中にその発芽をみるようになったのである。現代のアレゴリーとは、いい換えれば自らの中にある他者の声をきくという行為に他ならない。その声をきく行為の具現化がパフォーマンスという作業にとっての内在する精神構造であろう。

 かつてパフォーマンスは〈ハプニング〉という言葉で呼ばれていた時代があったが、その時代の王は都市文明であった。行為は破壊や極端なエロチシズムを伴って現われ、文明批評として機能していた。この場合、人間はその存在そのものによってアレゴリー的存在として機能しており、性の解放やオージーはその代表的な寓意であった。しかし、現在は一見どことなく似た様相ではあるが、他方に於いてニンゲンが抑圧したのは結局そのニンゲンが住むニンゲン社会であり地球そのものであったという事実が、声を失わせてしまったのである。情報の受け手は同時に発信者であるという現在の同一化状況は、批評の有効性を失わせてしまった時代といえるかもしれないだろう。こうした同一性の時代においては、アレゴリーが内なる声に向かったように、パフォーマンスも又内なる自己発見の形式へと向かったのは当然といえる。見方を変えると、古いアレゴリーが死に、新しいアレゴリーの創出をも意味しているのである。パフォーマンスはそうした新しいアレゴリーの創出の時代の産物といっていいかもしれない。勿論、何が新しい産物なのかアレゴリーなのかは解っていない。だが、王でも道化でもない存在を意味することだけは確かである。またアレゴリー風に言えば雌雄同体、アンドロギュヌス的世界こそが自己批評としての対象となるかもしれないという予感がここにはある。

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