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パフォーマンスの逆説

 サテ!私にとってパフォーマンスとは、アレゴリーの手法によって〈私を視る装置〉の一つであり、もう一つは内省する自己の確認によって〈生きられる芸術として〉世界を視る装置だと書いてきた。その理念の形成としてアレゴリーが多分重要な役目をはたすこともその通りだと思っている。さらに、その中心にあるのが身体及び身体概念の再発ではないかと指摘してきた。それはパフォーマンスがライブ・アートである以上に自己認識的な方向を明確にもつ現象の一つであり、そのため必ずしもライブ・アートだけにとどまらずに、理論的には様々の芸術的引用と寓意によって可能であることを意味していた。ライブ・アートがより直接的な意味で観客に強い印象を与えるのは確かであるが、勿論、それも様々に行われたパフォーマンスの一つにすぎない。パフォーマンス=ライブ・アートのようにみえていて、実はそうでないものもある。反対に現象的=(ライブ・アートにみえないもの)にはそうでなくても確かにパフォーマンスのもっている確かな身体性や記号性を充分に感じさせるものもある。パフォーマンスに引用される素材は多くの場合、絵画、彫刻、映画、文学、詩、演劇、音楽、建築といういはば従来の形式がメディア的に使われ、その上に身体という素材が加わっているにすぎないものである。そしてその身体の形式も、他者の身体の引用という歴史的なテキストの参照に従っているといっても過言ではない。
 ところでパフォーマンスとはとりあえず、ここでは芸術の要素をもった行為と仮定してみよう。ここで仮定!というあいまいな言い方をするのは、一方で芸術特有の形式を保存するというスタイルから逸脱せず、他方ではその多くの芸術のテキストや具体的な表現の形式を援用しながら、〈身体〉の変容とそれに伴う瞬間的な時間の消費と空間の再編成という可変的現象がスタイルの逸脱性をうながす、という矛盾的な構造をもっているからである。それは一つ一つのパフォーマンスが必ずしも芸術的表現と結びついているわけではないことをしめしている。換言すると、表現の上ではもともと未分化の領域であろう。又、観客にとってみてもそうした現象は中吊り状態を意味する。パフォーマンスがパラダイムの変換や歴史的にはたしてきた自・他の確認などの役割は別として、表現についていえばやはり、形式的には不確定なものであることはまぬがれない。
 かつて私はパフォーマンスは多くの表現分野から等距離の関係にある、と書いたことがあるが、それは考えてみれば等距離というよりも、むしろ各々の〈身体〉の中に自己変革の衝動があり、それらが意識的な行為によって顕在化しはじめた、といった方がより近い感覚かもしれない。さらに、今日のパフォーマンス・アートに混乱の要因を与えたのは、今日の日本のように、日本語化した意味でのパフォーマンスが一般的な言語として使われるようになると、パフォーマンスは芸術の分野にとどまることなく、様々な人間の特殊な行為やわざとらしさや、みせかけの演技性などによって現代人の行動のアル種の象徴として用いられるようになったためでもある。パフォーマンスという言葉にカリカチュア的な要素を一般に感じるのはそのためである。それはメディアのもたらすアレゴリー性のためでもあるが、少なくともパフォーマンス・アートに対する一般的な混乱は、メディアがその表現性を通じて人間のカリカチュアナイズされた側面を発見したために起きた混乱という方が理解しやすい。様々な批評言語や広告言語に関係する人々にとっては、現代という混沌とした社会に生きる人々を表すために、パフォーマンスは寓意性ということに於いて極めて都合のよい概念操作の言語の一つであったことは、うかがい知ることができる。政治から漫画の世界までこれらの言葉の使われ方を分析するまでもなく現代という時代に生きる人間像を理解するためにはパフォーマンスという言語を通し分析した方がよりよく私たちの像がより鮮明になる傾向にあるといってよい。

 つまりパフォーマンス・アートの混乱は、こうしてみると、表現そのものの未分化性にあるのではなく、その言葉のもっているメディア的資質自体の中に本来の混乱性が隠されているということにならないか。しかし、いうまでもなく、パフォーマンス・アートが混乱期にあるというよりは多くの近代芸術が現在もその発展的実験期にあり、人間主義的理念の追求を、全体的なカオスの体験の中から徐々に近代のスタイルや様式や理念をつくりあげてきたことを思えば、パフォーマンスも又その意味で人間主義の先端にぶら下がった前衛的宿命にあった、といってもよいのではないだろうか。それはカオスそのものを体現したという意味でむしろ歓迎すべき出発であったと思われる。なぜなら、繰り返すようだが、パフォーマンスの理念的根拠はまさにそうした社会生活のカオスや日常のカオスに根差したものであり、そこから生まれるパラダイムの変換によって、固有の文化性や身振りや記号を再発見することでもあったためである。画家であり優れた文明批評家の谷川晃一はかつて「現在までのところパフォーマンスの概念は、はなはだあいまいである。
なぜならあらゆる行為はパフォーマンスになりうるからだ。論理的には絵を描くことも、踊ることも、飯を食うことも、ピアノを弾くことも、パフォーマンスといえる。」(『視線はいつもB級センス』/現代企画室)といみじくも書いているが、さらにつけ加えれば、行為をとりまく環境も、その起因となる心理も、無数の物質的存在も、人間と関わりあう時全ては論理的にパフォーマンスの対象となりうるという点で、皮肉にも現在の、マス・メディアがもたらした一般的なパフォーマンス論はある種の正当性を裏づけていることになるという倒錯した現象をパフォーマンスはどこかで支持しなければならない理論的根拠をもっているといってよいだろう。それは又、芸術やそれに伴う行為性も絶えざる変革にさらされており、そのため言語も変容することを意味している。つまり、パフォーマンスは絶えず変容され続けていることをこれは暗示している。換言すると、パフォーマンスはそれ自体本来未文化であることがパフォーマンスたらしめている、という倒錯性によって、成り立っているともいえるのである。

 このように考えてゆくと、パフォーマンスは私達の生きている現象のダイナミックな変換性と深い関わりがあることが解ってくる。それは芸術という現象であると同時に、日常の方法論的再発見という意味が集約されているといえるだろう。文芸批評家の三浦雅士の本のタイトルを借りるならば、〈私という現象〉(冬樹社)が、突出してきた形式で表出する仕組みである。いうまでもなく、劇場国家論が語られ、劇画的犯罪が実行され、テレビ的犯罪、ゲーム的犯罪など、ミヤザキススムに代表される劇画的社会の反映がパフォーマンスの一方の資質であることは否めない事実である。もしも犯罪と性が今日の社会の最もその両極にあるラディカリズムを構成するとすれば、勿論ホモ・セクシュアリティ的生活やサディスティックな社員研修制度や牢獄のような受験システムも又カリカチュアナイズされた私達の生活も全てパフォーマンスの象徴であり対象となりうるだろう。比喩的に言うまでもなく、これは一億総パフォーマーの時代を生きている証左といってもよいかもしれない。つまりパフォーマンスは一面で日常というソースから非日常性が絶えざる性的倒錯や比喩の体験によってもたらされているという現実は、とりもなをさずパフォーマンスがもっている従来的な意味の芸術の拡大やパラダイムの変換を基軸にしていないことに気がつく。「あらゆるものはパフォーマンスたりうる」というのは、まさにそうした認識によってもたらされたものである。

 「パフォーマンスという言葉には、達成、遂行、成就、実演、操作、行為、行為能力、演劇の上演、演奏、曲芸、見世物といった意味があるが、その語源はラテン語のperfomare (形を与える)に由来する」(ユリイカ9月号/昭和59年/特集・パフォーマンス/清水俊彦)とすれば、中曽根康弘も土井たか子も政治的曲芸をし、政治に形を与えている、ということからすれば、勿論現代の優れたパフォーマーであることはいうまでもない。日本社会党がかって政治に形を与えるためかどうかは知らないが〈愛と知と力のパフォーマンス〉という党のスローガンを掲げたことがあったが、一部の識者からは非難を浴びたらしいが、パフォーマンスという言葉もここまでくると立派に市民権を得たということになる。いや、社会党がそれによって立派になったということをその後私は寡分にして聞いていないので必ずしも立派なスローガンが立派な党の証明ではないことは確かなことであるが、ともかく、パフォーマンスという言葉に従えばその言葉の使い方ということに於いて、今日の日本的状況の最も象徴的なものの一つであったということはいえるかもしれない。しかし、土井たか子も中曽根康弘も嫌いな人のために一言つけ加えておけば、パフォーマンスが人々の日常のソースの中にあるという論理的な原則はともあれ、社会党も本来の政治のためにパフォーマンス=達成、成就しており、頑張っているかのようにみえても、そこにはパフォーマンスにとって最も魅力的な一面である日常的な身体のリアリティが全く失われているという点で、それらは全て政治的宣伝行為になり下がっているということでもある。あえていばパフォーマンスの最も醜い表出の典型であると、つけ加えておきたい。つまり、パフォーマンスは、その論理的原則を活用するために必要な日常的身体へのまなざしと共に想像力と歴史の引用をパラドキシカルに理解するための批評性を有しているにもかかわらず、その一切を表層的現象に帰する瞬間に、暴力的メディアにとって最も都合のよい形式となりうるという教訓をこれは含んでいる。言うまでもなくパフォーマンス・アートの定義はまず第一に表層性からの脱出によって成立する。換言すれば、純粋に自己の身体的想像力による表現へ転換する力を獲得することである。生きられる芸術とは、そうした力を表明する方法論でもあるのだ。現象的パフォーマンスと表現としてのパフォーマンス・アートをはっきり区別することができるのは、こうした無びゅうのメディアである現象から逃走することによって、まさに、自分自身のメディア的身体の確立へたどりつくことを意味しているといってよいだろう。

 さて、そのパフォーマンス・アートの発芽は困難な時代である今日にあってもわずかずつある。もとより、絵画や彫刻、音楽、演劇、舞踏などよりははるかに遠い距離にあるとしても、すでに論理的方法や技術の展開は一つの方向を示すようになってきた。それは同時に、従来の芸術論や文化論でまかないきれない身体の問題が、生物学的存在の意味も含めて問われはじめてきた時代のもたらす、〈身体〉への新しいまなざしでもあった。清水俊彦氏はその優れたパフォーマンス・アートの定義の中で次のように言う。「伝統的生活の鋳型との断絶」「自ら決して無縁ではない演劇や舞踏のコードとの断絶」「自分自身とは別の役割りを演じることはない」「パフォーマーは自分自身の記号であり、たとえ二次的にでも、他の記号ではない」「意味のある見せ方をしなければならない」「パフォーマーは観察者としてふるまう」「現実には、彼は自分自身が作り出すものの観察者であり、言表(パフォーマンス)の主役であると同時に受け手でもあるという一人二役を演ずるのだ」。
ここに抜き書きしたのは、雑誌ユリイカで昭和59年に特集した〈パフォーマンス〉の中の一節であるが、ここには論理的なものと、手法的なものという二つの点で今日のパフォーマンス・アートのもっている性格をよく表している。そこにはパフォーマンスの意味の源泉が社会生活に他ならないことを指摘しているが、それに続く分析がパフォーマンスとパフォーマンス・アートを区分する上で重要だと思われるので少し長いが引用してみよう。
「すでに指摘したように、社会生活は他の重要な活動の場合以上に、パフォーマンスにとっては重要な源泉である。他の活動以上にという言い方をするのはなぜかと言えば、共同体の内部で行われる活動には、その最も高度な形態である芸術活動を含めて、全て社会生活の刻印が押されているからだ。したがって、パフォーマンスもパフォーマーも、社会的コンテクストの諸状況から切り離されたものであってはならない。演劇と文学とは違って、特に優遇すべき〈主題〉をもたないパフォーマンスにおいては、社会の諸要素の各々がそれぞれの役割を遂行する。このように主題が複合的であるために、パフォーマーは自由に表現形式を選ぶことができ、その結果、ダイナミズムが生まれる。この後者が、対象の記号へ変換と相まって、誇張でなしに、とび抜けて自由な種々様々な形の芸術現象を生みだすのである。」
 この清水俊彦氏の考え方は、ローズリー・ゴールドバーグのパフォーマンス論の主体である社会的資本という認識と一見非常によくて似ているが、ゴールドバーグが芸術の中に組み合わせの自由―パフォーマンス・アートのユートピア的ヴィジョン―としているのに対し、清水俊彦は記号の変換による芸術の諸現象の拡大という理念によって、パーフォーマンス・アートがより一層今日的身体性のヴィジョンのあり方に沿わせており、あえていえばゴールドバーグの言う芸術性という概念を社会的構造にまで押し進めたという点で、すぐれて私達の現状的批評性を獲得していると思われる。ゴールドバーグのパーフォーマンス論が分析的だとすれば、氏のそれは構造的な示唆に富んでいるといってもいいだろう。だが、分析的なものと構造的なものという違いは、この二つの考え方に基本的に共通しているのはパーフォーマンス・アートのコンテキストが社会的なものと密接に結びついていることの指摘である。さらに、「パフォーマンスの記号は、可動的であるだけでなく、別種のものである」と清水俊彦が指摘するように、パフォーマンス・アートは、決してパフォーマンス現象をそのまま今日的とするものでないという共通の認識である。つまり、特殊性と普遍性という二重の共通性によって、パフォーマンスは可動的であるだけでなく、別種のものであるという両義に立っているのである。この両義性がパフォーマンス・アートを現代芸術の特異な側面にみせていると同時に、逆説的には現象としてのパフォーマンスをあいまいににみせかけている最も大きな理由でもある。
 つまり、伝統の鋳型を断絶し、従来の演技的なものと断然し、演者と観客の二役を演じるパフォーマンスの手法が、そのまま現代人の身体性の構造に重なりあい、身体をとりまく状況に敷衍する時、パフォーマンス・アートは作品主義を抜けだして現象的な個人の立場と強く結びつくという極端な両極の同時性をもたらすのである。
 それゆえに、という理由であろうか。パフォーマンス・アートは「最もありふれた日常的な資源を前例のない目的のために用いながら」、達成、遂行、成就、実演、操作、行為、行為能力、演劇の上演、音楽の演奏、曲芸、見世物といった手法と技術を駆使しながら、視覚、嗅覚、触覚、聴覚といった感覚の多様性に組みあわせられながら、現代の芸術表現の地平へと到達する可能性をもった人間心理過程的様式であり思想の具体的提示方法ということが言えるかもしれない。言い換えればパフォーマンス・アートは、今日の日常的身体を資源とした、芸術家のそのまま表現レベルに到達させようとした現象といってもよいだろう。それは〈芸術家が芸術をつくるのではない。芸術が芸術家をつくるのである〉というこれまでの理念に対する芸術家の挑戦である。誰もが芸術家であり、誰もがパフォーマーであるという最大の理由はそこにあるといってもよい。想像と創造力によってのみ世界は変革できるという意志の表明がパフォーマンスの社会的立場である。

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