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―階段を降りる裸婦―

 さて、パフォーマンス・アートと〈身体〉性との関わりはこれまでのべてきたように、その源泉を社会的資本に求めるものであり、その発芽はオスカー・シュレンマーやそれ以前から続いた普通の人々の身体という概念であった。例えてみれば、それは劇的でもなくわざとらしくもない普通のだらしのない身体ということができよう。パフォーマンス・アートはこのだらしのない身体がもっている日常的なまなざしによって従来の劇的構造をもった演劇や舞踏と区別されるといってもよい。つまり、〈身体〉を記号的に扱うことによって、それまで使用され続けてきた芸術的な素材や方法論に〈身体〉を同列に扱うことを可能にしたともいえる。のちにクレメンテ・グリーンバーグが、ハプニングの発生をジャクソン・ポロックのドリッピング絵画にみてとったのも、キャンバス―絵画―行為が同列の記号としてとり扱われる現象を指したものである。又、今日のパフォーマンス・アートの現場でしばしばみられる〈身体〉のメディア的な使い方などは、〈身体〉が記号的なばかりか、極めてエレクトリックな素材として使われている良い例である。ローリー・アンダーソンのフィルム操作や音の変換作用、シンディ・シャーマンの写真による肖像画制作やジル・スコットによるビデオ・メッセージとインスタレーションの組み合わせによる〈身体〉の露出は、みる人にとっては〈身体〉のエレクトロニクス化という点で興味深い。又、オーストラリア人のステラークのように、実際に「第三の手」という手の形をしたエレクトロニクス使用のロボットを作って、〈身体〉がメディア的記号のみならず実際のエレクトロニクス素材によって身体的に変換されうる現状を現実のパフォーマンスにした例もある。こうしたいくつかのパフォーマンス・アートの新しいメディア的創造がマリネッティ、シュレンマーをへて20世紀初頭より今日まで、多くのアーティストによってすぐれた例称を私達に語りかけてくることによってパフォーマンス・アートは〈身体〉に於ける新しい身体論を獲得してきたともいえよう。1970年代に入って活発にパフォーマンス・アートを実践したビト・アコンチ、テリー・フォックス、ブルース・ナウマンのモノローグ的パフォーマンスや日本人でいえば松沢宥やニルバーナと称する瞑想的グループの仕事もその範疇としてとらえることもできるかもしれない。
さらに、こうした身体性のメディア変換を意識的に操作するパフォーマーと共に、固体としての肉体を極限まで延長することによって、むしろ肉体の異化を押しすすめる人々もいる。彼等は肉体をストレートに露出しながら、その肉体の抱えている象徴的な社会的モラルや日常の身振りや制度そのものを行為として露出するという、いわば〈身体〉による〈身体〉の変換を操作することになる。そこにはおびただしいほどの物質的象徴物や隠喩的な身振りがもちこまれることによって肉体も又それらと等しい状態であることを暗示するのである。性や暴力というよりは、グロテスクさやホモ・セクシュアリティや様々な性の倒錯が演技なしに実際に行われる。初期の草間弥生のオージー・ハプニングや、豚の血を頭から浴びるヘルマン・ニッチ、さらには究極のバイオレンス・セックス・パフォーマンスともいえるオットー・ミュールのアクションや同時期のウィーン派の一人であるギュンター・ブルスなどにその例をみることができる。それらは必ずしも記号的〈身体〉としての特徴をもったパフォーマンスとはいいがたいグロテスクさにあふれている部分もあるが、やはりそこに現われた肉体は、その肉体に与えてられてきた歴史的記憶や現象的の反作用としてみる限り、その肉体にとりついてきた人間の営為という名の社会現象が、すでに無用のものであるという意味に於て、別の意味のメディア変換といってもよいのである。
 換言すると、今日、私達がパフォーマンス・アートと呼んでいる現象は今世紀になってもたらされた近代的自我の再検証であり、無尽蔵な日常性という概念によって誘発された社会資本を基準にした芸術のあり方への再批評ともいうべき行為であるといってよい。

 だが、一方でパフォーマンス・アートが変換されたメディア的身体という認識に従う限り、それは今日の多様な社会的メカニズムの広がりや情報の拡散によってもたらさる時間と空間の広がりに対して、結局は現代史の中のメディアの補完的役割にすぎないのではないか、という問いも新たに抱えこまなければならなくなる。つまり変換される〈身体〉は他者=観客の変換にも同じ原理が応用される限り、変換という記号は永遠のパラドクスの中に置かれていることを意味する。その意味でメディア的身体という認識を使うとするならば、例えば、本来パフォーマンス・アートとは社会資本を源泉とする以上絶えざる自己変革性をその環境や周辺に予感し続けなければならないことになる。繰りかえすようだが前章でのべた未分化性や不可知性というのは実際にこのような状況の反映である。要するに、現象に従う限り存在は瞬間的に陳腐化し、新しさはすぐに古さに変化してゆくというパラドクスの渦中を想像することができる。そうした変化こそパフォーマンス・アートの重要な定義の一つであるという言い方もあるが、自己が自己の現象によって干渉される姿はパフォーマンス・アートを時代の中で不安にさらし続けていることも確かであろう。こう考えてみると、パフォーマンス・アートは瞬間的な変革性といういはば理論的には可能でも、実際は不可能な地平に立っているといえよう。そうした自己矛盾性がパフォーマンス・アートに内在し続ける限り、それらを解く鍵としてシュール・レアリズム的なものや、アンドロギュヌス的概念が〈身体〉の謎として今も私達につきつけてくるのだということであろう。
 再びローズリー・ゴールドバーグの言葉を借りれば「それぞれの定義」で生きるおびただしいパフォーマーのライブ・アートという輪郭も、実際は定義されにくいというパフォーマンスのもつ未分化性や不可知性がもたらす現象的な分析ということになる。そうした不安な存在というか、不安な〈身体〉そのものの構造がそれ自体変革性をもっているという点からみると、それは周辺の変革に対する補完性を決して脱しきれないのではないか、というべきかもしれない。それは一方で〈身体〉を記号的にとり扱うことによってパフォーマンス・アートは進化していったのに対し、他方では〈身体〉の概念的喪失によってもたらされた現象が、パフォーマンス・アートを芸術の中心からひきはなしはじめていたという言い方になるだろう。つまり近代のパフォーマンス・アートはアートの中心の喪失がもたらした周知の思想に位置しているといってよいように思われる。

 かつて…。アートは… 決して補完できない固有の資質であり、独特の生命感にあふれ、生々しく、臨場感があり、独創的な刺激的空間を構成し、あるいは個々の全き生命的感情があふれ出し、旧来のいかなる形式からも逸脱した方法をもち、特異な時間の経過とバリエーションの体験に支配され、さらにはある種の根源的な生命体を予感させ、伝統と革新が不可分に結びつき、デモーニッシュであり、超越感があり、それらは全て通俗的な解説や批評言語にとらわれることなく、日常的かつ社会的共通のコードを通してダイナミックに彼我を自由に通底する作業であった、という意味での存在の中心であった。

 しかし、今日のパフォーマンス・アートがもたらしたものはそうした得意な表現性はともかくとして、基本的にはやはり普通の人々の身体へのまなざしであり、そのまなざしを通して世界を想像する行為であった。それはつまらないパフォーマンスとして発展したのである。芸術に対する反芸術。それこそがつまらないものの中心的課題であった。極めて逆説的なのは、自我の認識によって生じた普通の人々の身体という現象が、その絶えざる変換によって逆に中心から遠ざかってゆき、周辺としての力を中心に働きかける構造に到ったということである。つまり、パフォーマンス・アートによって出現した普通の人々の身体という概念はその内在する社会的資本がどのようなものであれ過去のいかなるアートをも理論的には否定することによって成立するという、現実との矛盾を抱えこむことになったのである。その意味で大袈裟にいえば20世紀は中心の喪失によって、普通の人々が主人公になった時代である。
 こうした時代や状況を背景にして、今日のパフォーマンス・アートにつながる重要な契機が20世紀初頭に起こったことは、いくつかの例でのべてきた。ヨーゼフ・ボイスにみる西欧の断片の思想や、オスカー・シュレンマーの例をもちだすまでもなく、普通の人々の身体へのまなざしである。だがそうした一種の社会状況と表現との分析的関係と共に、パフォーマンス・アートの源泉となった具体的な方法論とみなされる作品への言及も又、パフォーマンス論にとっては解きあかさなければならないのも確かである。つまり、社会的資本の源泉となった一枚の絵画について。

 《階段を降りる裸婦》がマルセル・デュシャン(MARCEL DUCHAMP) によって描かれたのは1912年である。
 この絵はそれまで描かれたどのような裸婦の絵とも違っていた。まず姿や形がはっきりしていない。それまでのいわば典型的な裸婦につきものの優雅な曲線では描かれてない。さらに同じような姿をした裸婦がいくつも描かれている。その上裸婦はベッドや室内にいるのではなく、階段を降りている。
色彩的にみると背景の色とマチェールは裸婦と同系色である。そのため、裸婦という対象を描きながら、絵画としては一種の全体絵画になっている。つまり裸婦というモチーフを使いながら、今ではごく当たり前のように考えられている全体の構成やバルールや配置性が全面にでてくる印象を与えているのである。この絵画がマルセル・デュシャンによって1912年アーモリー・ショウの会場にもちこまれた時のスキャンダルは数々のデュシャン研究や論文によってくわしく紹介されているのでここでは割愛するが、いわば、それまでの中心画的絵画をみなれていた人々にとっては、この〈絵画ならざる絵画〉は、大変なショックであったことは容易に想像できる。優雅な曲線の否定は美への冒涜であり、階段を歩くという裸婦の行為は不謹慎のそしりをまぬがれない。さらに色彩の不透明さは対象に対する消極性を意味しており絵画の象徴性という概念そのものを否定しかねない、つまり絵画の否定的立場という印象を与えたのではないかと思われた。民衆社会に生き残った過去の形骸化した芸術家達によって避難された《階段を降りる裸婦》はのちに立体派の代表作としてあるいは又、マルセル・デュシャンの現代芸術に与えた影響の第一歩としてもよく知られるようになったが、一時的にせよデュシャンはまさに風刺的にいえば〈画壇を降りる自画像〉を描いたことになる。
スキャンダルは別として、この〈絵画ならざる絵画〉=《階段を降りる裸婦》が現代芸術のみならず私自身がパフォーマンスを考える上でも重要であるとみなすのは、第一にその絵画に含まれた様々な記号、つまり〈機械性〉〈全体性〉〈抽象性〉と共に〈時間性〉の概念が描かれていることにある。単順にいうと、裸婦は歩くことはない、という美術史的視点の転換もさることながら、歩くという行為を目の網膜現象を分析したような手法によって〈写真〉や〈映画〉という当時流行した時間芸術の新しい展開と共に思いおこさずにはいられないからである。ともあれここには絵画によって実験された〈時間〉の概念が用いられていることが大きな特徴である。一般的に立体派は同一平面上により多面的な視角を導入することで、印象派の手法や考え方をより科学的に分析したことで知られているが、少なくとも同一平面上に同一人物が目の残像のように描かれるとか、もしくは瞬間的な動きや形態をまるで写真のストロボの撮影のようにとらえるという意味で描かれたということではない、という理由でマルセル・デュシャンの描いた《階段を降りる裸婦》は、立体派というよりは〈時間派〉の作品に属する。こうした〈時間〉を直接的に反映するという科学的視座による手法の写真的な原理である網膜への定着を意味する描写は、いうまでもなく、極めて認識論的な絵画という意味である。
 のちにデュシャンが通称『大ガラス』−《彼女の独身者たちによって裸にされた―花嫁さえも》をつくりあげた時の手法の一つにガラスのひびわれという〈偶然〉の〈時間〉の概念をとりいれているが、《階段を降りる裸婦》に描かれた、歩くという〈時間〉、残像の定着のような〈時間〉が『大ガラス』さらに前に発見された絵画とみなすことができるように、デュシャンにとっては、こうした網膜的な現象や連続性のもたらす〈時間〉の発見が芸術概念の大きな転機になったのは今さらここでのべることもない程周知のことである。さらに加えれば1mの高さから落とした《三つの原基》のオブジェや、レーモン・ルーセルの「アフリカの印象」「ロクス・ソルス」等の小説にしばしば登場する駄洒落―言葉遊びからヒントを得たのではないかと思われるのちの『大ガラス』と対をなす《グリーン・ボックス》にしても、そこには偶然性という時間の概念がもたらした〈行為性〉と〈認識論〉を結びつける暗喩がつねにつきまとっているかのようである。のちにJ・ケージに引き継がれたかたちで実験的発展をした不確定性の〈時間〉の概念などの思想も、デュシャンの中に秘そむ〈時間〉の証人として重要な出来事とみなすことも可能である。
 こうしてみるとデュシャンが描いた1912年と言う時代は、絵画に始めて意識的に物理学的概念に近い構造をもちこんだ、いわば絵画史上一つのエポックメーキング的時代といえそうである。
 それは少々大袈裟に言えば19世紀末から20世紀初頭にかけて描かれたモネやスーラやルノワールやシニャックなどの光の分析に関する援用にもつながる物理学的視座の時代といってもよい。〈光〉と〈時間〉は共に波でありスペクトラである点で色彩のバルールの様式に従うものでもない。ましてや単なる写実でもないとすれば、1912年を一つのエポック・メーキング→科学的視座の定着と実験の成果=の結実とみなすのは多分それ程無理はないと思われる。その後急速な発達を遂げてゆく写真や映画のみならず今日の多様なメディア媒体のことを考えてみてもわかるように、意図的にせよ無意識的にせよマルセル・デュシャンの《階段を降りる裸婦》の存在は、結果的に時代の援用や引用によって際だった象徴性を獲得した、ということになるだろう。
 「それは、誰でもそれらのものを少しばかり拡大して解釈すれば、人生はもっと面白いものになるだろうという思いつきに過ぎない」(「マルセル・デュシャン」/カルヴィン・トムキンズ著/中原佑介・高取利尚訳)とデュシャンはのちにのべているが、まさにその思いつきを思いつかせる時代が1912年であった。

 《階段を降りる裸婦》に示された象徴的な〈時間〉の概念は、他方からみればすでにその当時の社会背景にすでに今日の情報社会と似たような価値の交換や変換が醸成されはじめていた下地というか空気が一般的になりつつあったことをしめしている。ある意味では、物理学であれ、生物学であれ、心理学であれ、こうした芸術の分野意外の認識が表現と交わり、その交わった形式を通じて新芸術を生みだし、さらに新しい芸術の放つ予感によって、他の分野を刺激し次々とさらなる変換と交換を可能にしていった時代であったともいえる。このことは同時に芸術家が芸術表現や技術に対する自己批評性や自覚をもったことにとどまらず、他の世界の観念や思想や研究などを通じて芸術と人間存在の自覚へ絶えず働きかけられていた時代ということもできるかもしれない。すでに身体という生物学的存在が色彩を扱い、日常の中を生きる物理学的視点が構図をかたちづくり、現象学的感性が絵画的メッセージに連なろうとしていたともいえようか。あるいはデュシャン流にいえば、人間の目の認識がそれを可能にするのだという結果が《階段を降りる裸婦》を生みだした、といえようか。考えてみれば絵画は19世紀中頃まで、目の喩悦の支配下にあり、今世紀は脳の認識の時代がそれらに加わることによってより一層重層的な世界をつくりだした時代といってもよいかもしれない。

 パフォーマンスの出自に関してして《階段を降りる裸婦》が私にとって興味深いのは、こうした演繹的立場がもたらす歴史によってである。《階段を降りる裸婦》のもたらした、今日の〈メディア的身体論〉=触媒論や〈器官なき身体〉=記号論的身体に象徴される、不安な時代のアイデンティティの喪失性や現代人の心理的な演技性やリアリティの不在や隠された比喩の〈物語〉性を読みとるためのテキストとして不可欠な条件は、何より〈時間〉という新精神の初露に他ならない。それはパフォーマンス・アートに代表される芸術家の各々の定義と各々の異義申し立てという行為に象徴される社会的な見方ともいえる、科学的視座の獲得が《階段を降りる裸婦》に表出されているように思えるからである。その一つの問いが絵画に於ける〈時間性〉の問いであり、時間論によってパフォーマンスの出自の手掛かりをみいだすことができるのではないか、というテーマが私がデュシャンにこだわるきっかけでもあった。それはとりもなおさずパフォーマンスが単なる社会批判や前芸術へのアンチテーゼとしてのマニフェスト性や衝動性(ハプニング性)にとどまらず、独立した表現の地平にあらわれる独自の技法、思考、アイデア、形式をもった芸術であり、そうした表現レベルの重要な要素として〈時間〉は重要なテーマであるからである。そのことはパフォーマンス・アートを構造的にいうと、一つには〈日常〉があり〈日常〉にまとわれた〈時間〉が関わっており、その時間を中心とした表現という形式の彼方に独自の〈身体〉と〈空間〉があらわれるということになる。さらに、その内容に於いては多くの芸術から〈時間〉の引用と援用、〈身体〉の隠喩と象徴をともなって蕩尽したあらゆる表現から遠い地平に到達することである。《階段を降りる裸婦》はその意味でいうと今日のパフォーマンスにとって、そのスキャンダル性、物理学的視座、民衆の身体、階段を降りるという行為性、行為性にあらわされる裸婦の衝激性などは充分に今日のパフォーマンスの原基として構造的要素にあふれている。例えばよくいわれるようなダダイズム前夜となったチューリッヒのキャバレー・ボルテールに集まったフーゴー・バル以下多くの若き芸術家が行った一見破壊的な身振りや反表現主義的言動は、デュシャン的肉体概念というか、あるいは今日のパフォーマンスに於ける自覚的な身体論からみると、そのほとんどはある意味で全く偶発的かつ無自覚性によってからめとられるべきもの(勿論、当時としてはダダの運動の破壊的な動きは、旧制度の堅牢なシステムや社会構造の残偉に対する最も効果的なものの一つであったことは今日ではよく知られている。民衆の無自覚的な熱いエネルギーが時として冷静な自覚的なエネルギーに勝るのは時として歴史の証明するものではある…)であり、多分、今日の認識論的なパフォーマンスやそれに連なるアイデンティティの確立と個人的な自覚による表現とは別のものとみなすことができる。ダダイズムと共にパフォーマンスの歴史(ローズリー・ゴールドバーグ流といってもいいが)に重要なかたちで登場するイタリアの未来派にしても、その実験演劇に登場する装置や衣裳、光の効果や空間の選択、観客に対するわざとらしい挑発、あるいは状況音の援用やフツウの人々の登場などはきわめて今日のパフォーマンスの状況や手法とよく似ているが、その演技者の身体をおおっている創造的ムーブメントは、今日のパフォーマンス・アートの経験とよく似ているというよりはむしろ優れてコメディア・デラルテや中世の晩餐祭を想像させる点では古典的でさえある。カリカチュアナイズされた登場人物。サーカスの見世物小屋の前。一幕ものの幕間。火吹き男。移動遊園地。パラード。時代の挑発者として組織されたバレエ・リュスのディアギレフにしても、かろうじてあの天才的バレリーナといわれたニジンスキーによって、さらにはパブロ・ピカソ、エリック・サティ、ジャン・コクトー等の天才によって支えられていた、と云ったらディアギレフとその研究者達によってしかられるかもしれないが、科学的視座を表現の認識とした方法とそれらをアイデアとして登用した以後の芸術とは全く違う立場に立っているのはいうまでもない。勿論、ピカソにしても、サティにしても、振り付けのレオニード・マシーンにしても、アイデアには新趣好としての科学的視座が盛り込まれているが、今考えるとそれらの多くは科学的視座という素材を使いながら、本質には実に牧歌的かつロシア的ノスタルジックな新古典主義傾向の〈劇〉=パフォーマンスをつくりだしたという点で、優れたダダイズムともいえる表現であった。

 今日のパフォーマンスの出自が、身体への科学的なまなざしであり、目の喩悦からの独立という視点に立てば、それは印象派からデュシャンに引き継がれた系譜といい換えてもよいのではないか。その意味で《階段を降りる裸婦》はパフォーマンスを考える上で記念碑的作品といってもよい。そしてその一枚の絵が私自身のパフォーマンスへの出発点だった。

 舞踏評論家の市川雅は「日常的身振りとパフォ−マンス」というエッセイの中でパフォ−マンスの出自にふれてこのように書いている。「彼等のほとんどはもともと美術家であって演劇の徒ではない。“パフォ−マンス”という言い方は美術家による演劇的行為という厳密な定義がある。一応、美術家による演劇的行為としてパフォ−マンスを扱う必要がある。美術家は何故パフォ−マンスを意図したのであろうか。一つには二次元あるいは三次元の美術の世界は時間の軸をもっていないからである。つまり、観客を異化する時間を所有していず、一方的に観客が造形作品の前に立つことを期待しているだけである。美術の力にも当然鑑賞者を異化する能力はあるが美術家の中にはこの受け身な態度にあきたらず鑑賞者を異化しようとスル人達がいることは明らかである。」(ユリイカ/昭和58年9月号)
 勿論、市川雅がここで語っているのはパフォ−マンスにおける厳密な意味での論旨ではない。むしろ空間に積極的に関わろうとしたアーティストが結果的に時間性に関係していった事実をのべていったにすぎない。にもかかわらず、この論旨の背後にあるのはもともと時間芸術の領域とされている舞踏、演劇、音楽などと、今日言われているパフォーマンス・アートが当初から別れた出自を、もっているという理由ないしは現象の分析をのべているのである。しかし市川雅もいうように観客という存在と作品という関係の距離の問題だけであれば、確かにパフォーマンスは美術家が距離の中間に置かれた〈時間〉という概念によって観客と同時に自分も異化したいという欲望によって説明できるかもしれないがもう一方では、積極的に観客と関わりたいという近代の消費社会にも似た絶えることのない欲望に似た感情と、あるいは絵画という商品とそれを売り買いするためのステイタスとしての個人の欲望への否定形として作用していると説明できるかもしれないのである。それは、美術が一つの職業として存在しているという現代社会の事実からも証明できるというパラドックスにもつながっている。
 だが、他方には欲望や社会構造や観客と美術家という関係だけでは説明のつかない動機によってもパフォーマンスはどこかで成立していることも確かである。

 いうまでなく、《階段を降りる裸婦》が優れているのは分析的結果によってではない。そのトータリティによって純粋に絵画として成立しているからである。この作品が発表される以前に、例えば、エドワード・マイブリッジやエチエンヌ・ジュール=マレイなどが撮影した人間や馬などの高速分解写真が存在していることは知られているが、発見の類似性をもってデュシャンの《階段を降りる裸婦》が単に彼等の引用などということはできないが(注・デュシャン研究によれば、デュシャンはこの高速分解写真のことをしらなかったという)少なからず時代の影響でもあったことは前述のとおりである。
しかし、《階段を降りる裸婦》が描かれるためには、それ以前に描かれた絵画的習練であった《デュルネシア》(1911年)や《汽車のなかの悲しめる青年》(1911年)《急速な裸体に囲まれた王と王女》や《処女》《処女から花嫁》などの作品も考慮の対象になるのはいうまでもない。そこに極めて個人的なモチーフであったデュシャン・ヴィヨンへの愛情という側面によって描かれたエピソードが隠されているにしても、やはり全体としてはそれらを越えた絵画的達成によって評価されるべきである。

 『しかし、もう一度、この作品をよく見てみよう。(中略)ここでは、肉体が完全に、一度、機械のように分解された上でつくりなおされた、機械人間に変わっている。(中略)少なくとも、ここでは「運動」とは、未来派が視覚的に外側からとらえた抽象的な運動一般ではなく、肉体を内側から内感覚的にとらえた、晦渋な運動の構造であって…』(「マルセル・デュシャン」/東野芳明著/美術出版社)
と、美術評論家の東野芳明は《階段を降りる裸婦》について分析しているが、この「内側から内感覚的にとらえた…」運動こそが、この作品を単なる時代の証言者の立場を越えて芸術作品にまで昇華させた原因とみることは可能である。つまり、モチーフによる技法の展開を通してそれが全体的なバルールや色調に反映された絵画性が最初に用意されたということである。それは又印象派以来押しすすめられてきた抽象性への完成が予感できるということでもある。同時にそれは、絵画が一種の記号であり、現実や未来を読みとるキーワードとして存在することの証しであったのである。あえていうならば、その記号性という認識が今日のパフォーマンス・アートがもつ現代という記号と重なりあうことで、マルセル・デュシャンの《階段を降りる裸婦》は、一枚の絵画という存在を越えて現在に働きかけてくる力をもっているといっていいだろう。つまり、記号性によって〈はたらきかける力〉こそパフォーマンス・アートの本質であり、《階段を降りる裸婦》にみられる芸術の力であるといってもよいように思われる。その意味で、パフォーマンス・アートはそれまでどちらかというと反芸術的方法論であるとみなされていたのに対し、現在は極めて批評的行為ということができるだろう。マルセル・デュシャンが《階段を降りる裸婦》に対して近代の自覚を表明したよう、パフォーマンス・アートはデュシャンの中でそれを伝えるさまざまな役をもっているということかもしれない。

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