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ブラック・マウンテン・カレッジ

 マルセル・デュシャンが今日のパフォーマンス・アートにとって一つの重要な契期を生みだしたのと同様、そのデュシャンの思想的引用者達ともいえる人々によってつくられた一つの神話がある。ブラック・マウンテン・カレッジである。そしてその神話の中心にはアメリカの作曲家ジョン・ケージが座っていた。
 パフォーマンス・アートは、台頭する自由な風潮によって、社会に対して異義を申し立てる者が、その表現の根拠であるライブ・アート的性格を鮮明にしてきたが。その中でマニフェスト的色彩の濃い活動から純粋なライブ・アート的性格へ移行する足掛かりをつくったのは、後のフルクサスや戦後のネオ・ダダイズム運動の前身となったブラック・マウンテン・カレッジでのジョン・ケージやマース・カニングハム等の一連の実験的成果である。
 結論から先にいえば、ブラック・マウンテン・カレッジで行われた様々なワークショップスタイルの実験、とくにジョン・ケージの思想的背景をなしている不確定性の理論の音楽への援用や、生理学的実験から確信された沈黙の概念への音への提示は、それまでの芸術理論に対して思想的にも実践的にも多義的な広がりをもたせたばかりでなく、その後の多くの現代芸術の展開や方法論に大きな影響を与え続けていた。

 ブラック・マウンテン・カレッジとは、アメリカのノースカロライナ州にあるブラック・マウンテンという小さな町に作られた、ひと握りの資金とわずかな人々によって計画された共同体の名称である。1933年にジョン・プライスの個人的努力とかつてバウハウスにいて教鞭をとったことのあるジョセフ・アルバースによって始められたのである。ブラック・マウンテン・カレッジがジョン・プライスと共にバウハウスの旧メンバーであったジョセフ・アルバースを招いたことは興味深い。1919年にドイツのワイルマールに創立されたバウハウスは、新しいデザインや建築の再興を目的につくられたもので、第一次大戦後のドイツ文化復興という明確な指標があった。しかし、その広がりと影響はドイツにとどまることなくヨーロッパ全土に広がっていったことはよく知られている。創立の責任者だったワルター・グロウピスは勿論のこと、ヨハネス・イッテン、ワシリー・カンデンスキー、パウル・クレー、リオネル・ファイニンガー、ラズロ・モホリ・ナギ、ル・コルビジェ、オスカー・シュレンマー等によって建築とデザインの融合という総合的な芸術のプログラムがつくられたのである。インダストリアル・デザイン、織物、家具、ステンドグラス、金属造型などのカリキュラムの他に、芸術学校 (?)としては初めてオスカー・シュレンマーによってパフォーマンスのワークショップが開かれたのも特徴的である。それはパフォーマンスについていえば、最初の頃はロータル・シュライヤーがカリキュラムを作り、のちにオスカー・シュレンマーがそれを引継ぎ完成していったといわれる。1939年にブラック・マウンテン・カレッジに招かれたクサンチ・シャヴィンスキィが独自のパフォーマンス・プログラムをつくったのも、こうしたバウハウスの経験の継承であったということができるかもしれない。しかしクサンチ・シャヴィンスキィのパフォーマンス・プログラム〈スペクトロドラマ〉は、ある意味ではオスカー・シュレンマーのパフォーマンス・プログラムの再現であり、新味はほとんどなかったという。〈死の舞踏〉と呼ばれる作品では仮面を使うという手法でもオスカー・シュレンマーを脱けだすことはできなっかた。それはマリネッテイやシュレンマーの好んだカーニバル的色彩に近いものだったようである。シャビンスキィは1938年にブラック・マウンテン・カレッジを去り、代わりにフェルナン・レジェ、オルダス・ハックスレイ、リオネル・ファイニンガーがその後参加しはじめた。歴史からいえばこの時期はブラック・マウンテン・カレッジが最初の地を離れ、1944年に同じノースカロライナ州のアッシュビルに移転する時期であるが、名称はそのまま残されて引き継がれていったのである。考えてみると、その当時の最も新しい芸術の中心地はすでにアメリカであり、そのアメリカにドイツ・ナチズムの勢力に追われたバウハウスの人々が来たのは、バウハウスで成し遂げられなかった理念の夢の復興をアメリカにみたからであろうか。ともあれ、ブラック・マウンテン・カレッジとは第二のワイマール及びデッサウの夢の再現であった。それはともあれ、バウハウスが目指した総合芸術への理念は、他方でダダイズム以来一種の破壊と再生を繰りかえしてきた当時のヨーロッパに吹きあれる革新的状況に対して、思想的根拠と共に実践を通してそれも特にそれまで革命の中心からはずれていた建築とデザインによって構築しようとしたことは興味深いものがある。それは分離派から構造主義へすすむ近代のモデニスムに合致し、かつデザイニングの発展による近代経済主義をもたらすきっかけとなったといってもよいだろう。いうまでもなく、写真や映画の発達による普通の人々の身体に働きかけられた近代の価値観がバウハウスを生みだしたといってもよいと思われる。

 さて、ブラック・マウンテン・カレッジではその形式もプログラムもアッシュビルに移転後大きく変化しはじめた。1948年に、ジョン・ケージとマース・カニングハムが、ウィレム・デ・クーニングやバックミンスター・フラーなどと共に参加してからである。
 当時の資料によると、彼等が合同で行ったパフォーマンスはエリック・サティの〈メデューサの罠〉であるとしるされている。『パフォーマンス』の著者であるゴールドバーグの記述によれば、〈メデューサの罠〉では、女主人公をエレーヌ・デ・クーニング、メデューサ男爵役にはバックミンスター・フラー、メカニカル・モンキーの振りつけはマース・カニングハムが担当し、全体の装置はウィレム・デ・クーニングが担当したと記している。つけ加えればヘレン・リビングストンとアーサー・ペンが演出したという。何故最初の合同パフォーマンスがエリック・サティの〈メデューサの罠〉だったのかは推理するより他にないが、少なくとも同じブラック・マウンテン・カレッジへの参加者の一人であったジョン・ケージがエリック・サティの最も良き理解者であったことを考えれば、最初のパフォーマンスとしては、サティの音楽がつくりあげた徹底したミニマリズム的手法や難解な詩やメモによらず、ブラック・マウンテン・カレッジの冒険としてはもっともふさわしいものであったことは想像にかたくない。勿論〈メデューサの罠〉がエリック・サティによって作曲されたのはサティ48歳、1914年であり時代は第一次大戦の勃発期である。それは「ダダ以前のダダの演劇」といわれた一幕の喜劇であったこともつけ加えておく。

 以来、ジョン・ケージとマース・カニングハムはブラック・マウンテン・カレッジで次々と音楽と舞踏の実験的な作品をつくり続けてゆくことになる。
有名な〈プリペアード・ピアノ〉や、後に音楽の概念を根底からひっくりかえしたといわれるようになった〈四分三十三秒〉という沈黙の音の概念もここで試みられたものである。他方マース・カニングハムはマーサ・グラハム舞踏団のスター的存在であったが、次第にグラハムのもつドラマ性の強い形式や音楽の構成に疑問をもつようになり〈日常的な身振りや仕草によって踊る〉ことを一つの目的とするようになってきたことも、ジョン・ケージの出会いを決定的なものにした理由であろうか。比喩的にいえば〈日常的身振り〉と、〈不確定性〉がアメリカという実験台で出会った、ということになる。
こうして二人はそれ以前の活動からブラック・マウンテン・カレッジを経て、さらにニューヨークのニュー・スクール(正式にはニュー・スクール・オブ・ソーシャル・リサーチ)を経てマース・カニングハム・ダンス・カンパニーまで行動を共にしてきた。考えてみるとそれはそのまま今日のパフォーマンス・アートの思想的過程と行為の純粋表現性が結びついた現象に重なりあう。つまり、パフォーマンス・アートは、それまでのどちらかというと過激なマニフェストや運動性、あるいは劇的構成から続くイタリアの未来派やバウハウスのもっている祝祭的手法から脱して、ジョン・ケージやマース・カニングハムによってマルセル・デュシャンに直接つながる科学的視座を継承しながら認識的な今日のパフォーマンス・アートにつらなる山脈を基いてきたということができる。
 ニュー・スクールに来ていたメンバーをちなみにちょっと紹介してみると、のちのハプニングの命名者アラン・カプロー、コンクレート・ポエムの重要な担い手であったディック・ビギンズやジョージ・ブレクト、その後ポップ・アートのスターとなったアンディ・ウォーホール、ジョージ・シーガル、クレス・オルデンバーグ、レッド・グルームスの他に、ビデオ・アートを語る時欠かすことのできないナム・ジュン・パイクなどの顔がみえる。

 遡れば、印象派からデュシャンへ、デュシャンからジョン・ケージへと続く科学的視座の座標軸が、〈身体〉を一つの優れたメディア媒介として語り継ぎながら、そこに生まれた新しい〈身体〉観を通して、今日のパフォーマンス・アートの理念や手法を形成していった優れたメディアの場、それがブラック・マウンテン・カレッジであった。
 バウハウスが建築とデザインによって近代社会のモデニスムを統一し、そこに民主主義的な基盤である富の平等をデザインのトータリディとして実践しようと試みたように、バウハウスの精神を継承したブラック・マウンテン・カレッジではある種の芸術の統合された形式を念頭に置いていたのではないかと思われる。それが《メデューサの罠》というオペラ形式の発表によって象徴される出来事だと思われるが、最も興味深いのは、建築とデザインの統合が経済社会のモデニスムとしたと同様、ここでは音楽と演劇、あるいは踊りが舞台を世界のモデニスムとして使用することによってトータルな芸術の表現を試みたことである。このことは従来、純粋芸術理論が人間の精神性に深く関わる出来事としてとらえていた状態を、さらに社会的関係にまで応用しはじめたことを意味しているといえるかもしれない。つまり、芸術による環境化。環境芸術の発芽である。その環境という考え方の中心を形成していたのが、ジョン・ケージにとっては音の問題であったのである。意識と無意識。この二つの要素をはっきりとすることで、過去の環境性に対する理念を今日的に移行させることができると思ったのであろう。つまり、過去の因襲的な芸術(創造力)をさらに転換させることによって新しい空間が広がるという予感。〈沈黙〉はそのために用意された無言のアンチテーゼであったのである。さらにこのブラック・マウンテン・カレッジに於いてもう一つ興味深いのは、バックンミンスター・フラーの存在である。彼も又、建築の現実的効用から逃れることによって、思想的にはすでに地球規模の人間空間と自由な国家概念を目指していたのである。のちに「宇宙船地球号」著した時、バックミンスター・フラーの立場はより一層はっきりする。ケージ同様に、芸術の社会的理念化がここでもみられることである。勿論、その後のポップ・アートの旗手であるアンディ・ウォーホールの複製社会論やカプローのハプニング論がもたらした都市文明の中での人間存在の意味への問いはブラック・マウンテン・カレッジの理念の反映であるのはいうまでもない。ここには、芸術のトータリティが社会的理念の応用という形で語られてきた場であったということが解る。

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