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ニューヨーク賛歌

 パフォーマンス・アートの装置性という意味でいえば、そうしたきっかけの最も象徴的な存在とは、1960年にスイスの彫刻家ジャン・ティンゲリーによってつくられた《ニューヨーク賛歌》がある。ティンゲリー自身によれば「この輝かしい機械の自由は一回発揮されて自滅してしまう」ものであり、演劇評論家のケネス・タイナンは「見ての通り、これは文明の終りだと私はいいたい」(カルヴィン・トムキンズ著/現代美術五人の巨匠/中原佑介・高取利尚訳)と評している。
 通常この《ニューヨーク賛歌》はジャン・ティンゲリーの作品の中でも最もスキャンダラスなものとして知られているが、その彫刻自身によるハプニング性はともあれ、他の面からみると、そこにはマルセル・デュシャンが《階段を降りる裸婦》に〈時間〉と〈機械〉に加え全体絵画としての方向をもちこんだように、ティンゲリーはこの彫刻作品に〈動き〉と〈破壊〉の要素に加え都市の廃棄物としてのジャンクな素材をもちこんだことである。〈動き〉とは〈時間〉の具現化であり、〈破壊〉はそれ自体メカニカルな近代の象徴を意味している点で、この作品は《階段を降りる裸婦》が〈機械〉の未来と〈時間〉の構造を示唆した形式に対する発展的方法論となっている。その上最も特徴的なのは設置場所にニューヨークという街が選ばれあたかも一つの劇場のように設定されたことである。多くの人々はまるでこれも演劇の演目紹介のように「催しは六時半にはじまり、約三十分で終わります」とあらかじめ内容を告知した招待状を受とり、そのためか、NBCのカメラマンがその光景を映画として記録するために待機していたことである。これはいわゆる通常の作品の展示会ではなく明らかにイヴェントであった。ニューヨークという都市を舞台にしたSHOW形式であったことである。都市の廃物という隠喩性は動くことによってより一層象徴化された現代人の心理に重なりあい、光と音を発するという彫刻の出現はそれだけで充分スキャンダラスであったことは想像にかたくない。そしてそれはいうまでもなく当時の〈ハプニング〉の状況と見合っていたといってもよいだろう。もう一度カルヴィン・トムキンズの記述を引用してみる。彼(アルフレッド・H・バー・ジュニア)は美術館の回覧誌ともいうべき「ド・ミル」の中で、テインゲリーの〈黙示録的なはるかなる敵陣突破〉についてこう書いている、「それは、ちんちん、がしゃんがしゃんと音をたて、震動し、からみ合い、ぶらんぶらん、ぶんぶん、ぎいぎい、きしみ、ついに笛を鳴らし、爆発して、ガラクタやくず鉄の神々のたそがれともいうべきものに解体してしまったといわれている。
おお、ジュール・ヴェルヌ、パウル・クレー、サンディ・コルダー、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルーベ・ゴールドベルグ、マルセル・デュシャン、ピラネージ、マン・レイ、ピカビア、フィリッポ・モーゲンの偉大な兄弟よ、君はそこにいるのか?」

 畢境、誤解を恐れずにいえば、《ニューヨーク賛歌》は今日のパフォーマンス・アートにあらわれた最初の〈装置感覚〉であり、その〈装置〉にあらわれたメディアという象徴性をもった〈今日の情報的身体〉の概念と重なりあっている。それはある意味では1970年初期にはじまるビト・アコンチやテリー・フォックス、ブルース・ナウマンが好んで〈身体〉をメディアによって異化するという手法の前史として、〈機械〉自身がなしとげた成果であろう。いわば、装置(空間)と時間(身体)が統一したパフォーマンス・アートの夜明けだった。時代背景の中にある不連続な歴史の継承という意味でいうと、レオナルド・ダ・ヴィンチの予感の彼方にマルセル・デュシャンが現われ、デュシャンのインスピレーションに呼応するようにアインシュタインが登場したように、この《ニューヨーク賛歌》の彫刻の出現は、はるかに今日のコンピューター社会からバイオテクノロジーやニューメディアに通底する〈姿なき未来〉を予感しているかのようである。

 (余談)私はこのいわば体験的なパフォーマンス論を書くためにいくつかの資料や著作、あるいは友人達に会って自分のパフォーマンス論と共に歴史のもっている役割を考えてきた。それは一口でいうと表現と社会との具体的な関わりであり、風景や自然が私達に与える影響や関係をどこかで基盤とする考えでもあった。このためその多くは特にアメリカやヨーロッパという最もそれらの現象が特徴的にあらわれた地からの引用を底流にすえてきた。パフォーマンス・アートに於いては特にそれがアメリカ、ヨーロッパに特例が多いのであるという理由である。今日のパフォーマンスがそれぞれに個有であり独自なものはいうまでもないが、その個有性という概念をつかまえるにも彼等の例称は貴重なものであった。私自身が戦後の教育の中で生き、個有性や構造性という思考自体がそこを中心にはぐくまれてきたからに他ならない。
こうした心理的な要因によって多分ここにいくつか選んだ作家達、例えばマルセル・デュシャン、ジョン・ケージ、アラン・カプロー、ジャン・ティンゲリー、あるいはヨーゼフ・ボイスなどは、こうした内因をつくっている戦後教育の構造的心理がそれらを選ばせたのではないかという問いが結果としてあらわれた。そしていくつか書き終えたあと驚いてしまった。偶然にもカルヴィン・トムキンズの著作「現代芸術五人の巨匠たち」の選択と合致したことである。逆にいうと〈パフォーマンス〉という概念を求めてゆく過程にあらわれた作家や作品が導いた結果ということであるが、してみるとカルヴィン・トムキンズの選択も一つにはそうしたもの、つまり極めてパフォーマティブな選択があったのではないかと思えたことである。勿論驚くことはないのだが、それだけここにあらわれた人々はあらゆる意味で今日の表現の根底的な思想に通底していた人々といえるのかもしれない。

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