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―電子メディア的身体―

 さて、今日のパフォーマンス・アートが他の表現同様に新しい場面というか思想の波にであっているのは確かである。一つ一つの表現自体はそれこそ、ちょっとした思いつきや、とるに足らない理由によって生まれることもあれば、用意周到な準備やメッセージによってパフォーマンスをつくろうという意志もみられる。だがそこにはパフォーマンス・アートが20世紀に入ってから特別席とはいわないが、様々な実験的な試みによって一つの特殊な立場をつくりあげてきたことは確かである。にもかかわらず、パフォーマンス・アートは今でも、単に画家の反乱とか、文化の周辺を彩るちょっと刺激的なものという風潮をまぬがれないところに立っているという見方もある。極端に云えば芸術家の余技的範囲を越えていないという指摘である。しかし、パフォーマンス・アートは絵画や彫刻、舞踏や演劇のように伝統的ではないが、やはり現象的にはすでにその系列に属していることも又確かである。そして、その存在の理由と生いたちもいくつかの歴史的分析をみるまでもなく結果として芸術の系譜として導かれてきたのも否定できないだろう。演緯的には王と道化の関係を暗示するものだったり、近代の自我の発生とメカニズムにその理由をたずねたり、社会現象としての新しい行動様式が生まれた結果、その行動様式の意志の表明の一つとしてパフォーマンスが適切な手段であったこともいくつかのパフォーマンスは証明している。とりわけ、近代の国家主義に属する人間の存在の意味を〈自由〉の概念に於いてとらえなおそうとした現象がパフォーマンスに結びついてきたのは、ローズリー・ゴールドバーグによるまでもなく一つの考え方であり証明の方法であった。その〈自由〉をめぐる葛藤の姿が、対象化された自己認識の投影としてとりわけ行為によって象徴化された現象がパフォーマンス・アートの出現であった。さらには、 表現ということに限っていえば、〈時間〉の概念をもたなかった視覚芸術が〈時間〉の概念をもちだすことによって、より直接的に空間的な構造を広げていった、そのきっかけとなったのが、セザンヌ以来の網膜的な知覚や全体絵画への認識であり、新しい空間性の発見による人間の存在意識が近代の主体であり、その結果として生まれた生命的ダイナミズムの獲得がパフォーマンスの最も魅力的な手法の一つであったことは確である。そのように考えてみるとマルセル・デュシャンの《階段を降りる裸婦》もジョン・ケージの《四分三十三秒》も、あるいはジャン・ティンゲリーの《ニューヨーク賛歌》も、パフォーマンス全体の流れからいえば一種の通過儀礼であったということができる。極めて印象に残る通過儀礼だったというべきか。パフォーマンスの出自に関しては多分、多くの人々が指摘するように〈画家の反乱〉という要素が強いのも、こうした網膜的なものの延長に属しながら、そのより効果的な展開を目指したからである。別の言葉でいえば、従来否網膜的な表現である舞踏や音楽の中に網膜的なものをみいだし、その網膜性と行為性をより分析的に構造化した現象がパフォーマンスという概念を生みだしたといってもいいかもしれない。音楽的であって音楽的でなく、舞踊的であってそうでない、という印象がどこかにあるのは、視覚芸術の中から〈時間〉をみいだし、非視覚芸術から〈網膜〉性=視覚性をみいだして、それらを統合した結果である。そのことが前章であらゆる表現から等距離の関係にあるとしたのはそうした意味でもあった。さらに中間領域にあるとか境界的表現であるといういい方もパフォーマンス・アートにあるが、むしろ他分野の周辺にフォーカスをあてた統合芸術の提示のスタイルでもあったのである。いわば価値と価値の中間に属する結果が行為の中に顕在化されたものであるといっていいだろう。つまり行為があぶりだしたものは、それまでの因襲的なスタイルであり、そのあぶりだされた結果が価値と価値を結びつけている領域であったと思わせる。それは当然のように新しい価値への問いであった。多くのパフォーマンス・アートのスタイルが異義申し立てをし続けてきたのは、価値に対する異義申し立てであるのはいうまでもない。つまり、何度もいうように新しい価値の創造がより提示的なかたちであらわれたのがパフォーマンスであったともいえよう。アラン・カプローの著作「アッセンブリッジ・エンバイラメント・アンド・ハプニング」で、アッセンブリッジについてアラン・カプローが解釈したのも、単に素材の融合や結合というだけではなく、素材にあらわれた社会的シンボルの融合や統合に於ける新しい価値への問い直しを意味している。同様にジョン・ケージの〈沈黙〉や〈騒音〉の概念も新しい価値への転換と深い関わりがあるのはよく知られていることである。別の角度からいえば人間の行動様式のさまざまな角度からの分析によって、それまで見落とされていた、というか無意識的にあらわれていた表現を意識的にみる方法でもあったのである。パフォーマンス・アートはまさにその実験と証明の場であったのである。パフォーマンス・アートに於いて多くの他分野の引用がされたり援用が用いられるのは、まさに他分野が見落としてきた、あるいは隠された分野への再考察という側面をもっているからに他ならない。古い儀式と現代のコンピューター的なものが結びついたり、ナンセンスな寓話によって笑いのもたらす効果が時には硬直した文化性を刺激したり、あるいはアナログな身体とデジタルなシステムをパロディ化する表現にしても、多くのパフォーマンス・アートが表明する異義申し立てはほとんど全てが新しい価値に対する微妙ないいまわしを基準としている。例えば秘義的な空間を失った現代社会では、秘儀的な状況を再現することはそれによって過去の人間の存在した時代から今日までの時間の流れを思い起こさせてくれるし、それによって、もたらされる現代の失われたものを見直すきっかけともなるに違いない。いわばこれは古い価値をもちだすことによって新しい価値をあぶりだすことを目的としている。もちろん、そうした方法ばかりではない。最も新しい手法や技術によってかえって古い価値をみなすことも一つの成果であるというわけである。ともあれこうした様々な手法や異義申し立ては20世紀芸術の特徴である。パフォーマンスはこうした20世紀芸術を顕在化させる特別な立場を与えたばかりでなく、パフォーマンスがもたらしたラディカルな1回性という式はさらにこうした実験的な方法や手法を駆使するための原動力として現在を切り開いてきたのである。
しかし、何度もいうようにパフォーマンス・アートはその最もよりどころとしてきた〈身体〉への考え方が、それまでどちらかというと直接に生の肉体に寄りかかりながら切り開いてきた世界に対してあまり効果的でなくなってきた現象があらわれる。それは仮の身体とでもよべるもので、言い換えれば、実体のない身体という現象に近い感覚である。私はロック・ミュージシャンのマドンナやプリンスなどに代表されるユニ・セックス的な身体感覚の産物である。それは、かつてチェコの小説家カレル・チャペックが描いたロボットの概念を想像することができる。それも電子メディアに色どられたロボットである。人間と似た姿をしながら、意志をもたない労働に従事しやがて人間のわがままな意志によってたやすく壊されジャンクになってもまだ部分部分は勝手に生き続け、あたかも腕一本足一本が機械的に動き続けるロボットの姿は現代の私達の一人一人に重なっているマドンナの奇妙にかすれた中性的な声と、セクシャルな腰や胸のコスチュームがもたらすどこかアンバランスなステージは生命のない機械仕掛けのロボットのようであり電子メディア時代のコンピューターの造声のようでもある。どこか両性具有的なのは、皮肉にも今日の女性が性や因襲から解放されていると信じられている状況に対して、マドンナがコルセットや金髪という女性セックスのシンボルを使うことによってひきおこされるのである。つまり、女性が因襲的であった時代、男の性のなぐさみものであった時代を女性が演じるというパラドックスの上に立ってマドンナが歌い演じるのは、今ではすっかり忘れさられた女性シンボルが女性を通してあらわれるというカリカチュアされた姿がそのように思い起こされるのであろう。女性が女性を演じるという倒錯性こそがマドンナのアンドロギュヌス性であり、その逆説的シンボルがひきおこす現象が中性的でありロボット的という印象に結びついている。同様にプリンスの舞台も、それはまさしくユニ・セクシャルな身体の表現であり、さらに押しすめればマイケル・ジャクソンにたどりつく。全ては中性的であり、意志的な存在ではない。電子メディアがもたらした現象だといえばそれまでであるが、従来のメディアの構造が極めてラディカルに社会と人間を結びつける回路としての機能をもっていたことに対し、今日の電子メディア的構造は、人間も又社会同様に一つの機能的役割として平坦化されてしまったことを意味する。いはば電子メディアのチップのように扱われることにその特徴がある。そのように考えてゆくと、電子メディア社会=仮に現在をこのように呼ぶとすれば、そこには男とか女という性別の分類はなく、ただニンゲンというチップが表出していることになる。チップによる平等がコンピューターでありエレクトロニクスの原則とすれば、私達の〈身体〉も又等しくチップのようにとり扱われていることに他ない。マドンナのアンドロギュヌス性やプリンスやマイケル・ジャクソンの中性化現象は、あきらかに過去のどんなスタイルにもなかった今日の電子メディアの影響としての〈身体〉がある。彼等は中性化を強く露出することによって、正しくは否人間性というスタイルをくぐって、再びニンゲンに戻りたいという意志を表明するのである。私達はかつて生々しい身体による自由を獲得してきた結果を自由主義的経験による新しい秩序を得た、そしてその経験ははてしなく繰りかえされ今やチップ的平等の平坦な無味乾燥な時代の中に生ている。そのことをもう一度問い直すとそれは本質的な自由とは何かというヒントの再考をうながしているようでもある。つまり電子メディアによる性能はそれまでの性にこだわる自由から全く別の自由をもたらすきっかけとなるかもしれないのである。現在のパフォーマンスとは、過去のどのようなパフォーマンス・アートとも仮に違っているとすれば、電子メディアの拡大と私達自身がその体現者であるという理由である。それは性別によって支配されている文化や進化論的文明によって差別されている未分化の領域や、そこから導かれてきた現在の物質文明であり自由の概念や存在の概念に対する異義申し立てである。そのテコとして電子メディアがあり、メディア的身体が自覚されたことによって現在のパフォーマンスは他の過去のいかなるパフォーマンス・アートとも区別されなくてはならないし、又事実そうした傾向によって支持され続けてゆくに違いないと思われる。

たまたまこの文を書いている最中に、一昨年のベルリンの壁の崩壊という歴史的事件以来の大きな事件がおきた。イラクによるクウェート侵略とそれに反発するアメリカを中心とするペルシャ湾岸戦争である。歴史的視点でいえばこの戦争はそれまでどこにでもあった地域紛争の域をでていないが、興味深いのは、この戦争がやはりベルリンの壁崩壊と同様にテレビを通して同時中継されてきているということである。かつてテレビでまるでフットボールやマラソンのように中継されてきた戦争などあったことはない。そこで私達は一方で戦争の悲惨さを感じると同時に他方でテレビというフレームを通してベッドの中や食卓の前でまるでゲームをみるようにながめている自分を発見するのである。ベルリンの壁の時もそうだったが、多くの参加者、アメリカ大統領のブッシュもイラクのサダム・フセインもテレビの前に釘づけとなりテレビを意識することによって戦争を続けている。テレビがゲーム感覚となっているわけではない。すでに、出演者が見えざるメディアの手によってゲーム的であろうとする心理が戦争をおこしているといってもよいのである。
皮肉にもメディア的身体の究極の体現者は戦争であり、死を媒介にしたゲームに熱中する人々によってひきおこされているのは現代にとってそれこそ究極のパラドックス以外なにものでもない。一人一人の兵士の姿をしたマドンナやマイケル・ジャクソンが次々に死んでゆくのだが、その死も又テレビゲームの中の死であり単に記号的なものが欠けたにすぎないという感覚がテレビを通して伝わってくる。換言すれば、電子メディアによる自由とは死を無化した瞬間に再生されることを意味しているともいえるだろう。文学的な死も生物学的な死も等しく単に死という記号によってくくられながら、それはまるで、ピアノやラジオや車や食べ物の一片と同じように扱われ現代にはびこっている自由である。電子メディア時代にあっては逆説的にいえば生きることもゲームなのだということになりかねない。だが、こうしたゲーム的に生きるということが道徳的反発をまねくのはたやすいが、しかし道徳的に生きるということが必ずしも一切の状況を無視して理想的かといえばそうでない以上、電子メディア的遊技性をもった生き方が道徳的でないといって感情的に否定する根拠もないといわねばならない。むしろ、仮説にしても、この遊技性の中にあらわれた記号的自由の概念こそ、旧来のいわゆる〈自由〉のモラリティやその盲目的信仰に代わるものかもしれないという考えは捨てきれるものではない。比喩的にいえば〈自由〉は不自由の対極にあらわれる喜びである。とすれば、電子メディアによって無化されつつある人間性とその関係につらなる〈自由〉という現在の姿も、ある意味では無化という概念的なジェノサイドの側に立って、その概念のジェノサイドの彼方に生き残った〈自由〉を描くことも可能といわねばならないのだ。それはかつてアナーキーな精神状態であり相対化をこばむ孤立主義と似ているが、他者をこばむ絶対的な孤立による内面の葛藤によってもたらされる魂の純化に似た個の生育が電子メディア的身体に比される一つの可能性である。1970年代に入って起きた世界状況がドラスティックに精神世界に与えた影響は大きいが、それだけで多くの表現が内面的になっていったとは思えない部分がある。もし、そうした外的要因にとって欠けているものがあるとすれば、その間に起きたメディアの多様化とエレクトロニクスの発達とコンピューターの普遍的価値道化という極めて具体的な物質の変容が、より外的要因である世界状況のドラスチックな変化に対して対応していったとみるべきである。それは単なるテクノロジーの現在へ同化道化の範囲に止まることではなく、テクノロジーがもともと精神の開発という語源にもみられるように、その技術を使って精神を開くという由来を呼びさましてくれる。かつて精神とは技術そのものであった時代があったが、やがて技術は精神と無縁になり、人間主義という精神世界の優位によって技術は人間の生活の単なる補完的な役目にしかすぎなくなってきた。表現も同様に、かつて技術者はイコール優れた哲学者であり芸術家であった時代に比べ、近代に於いて技術と精神が分離してとらえられたのと同様に、技術者は哲学や芸術家と別の存在を余義なくされてきたのだある。技術世界からいえば一種の差別であったことは一概に否定できない事実である。しかし、コンピューターやエレクトロニクスの発達はそれが純粋に技術の発展の結果もたらされたにもかかわらず、それらの技術が多様なメディアと結びつくことによって再びある意味では技術と精神の結びつきと余義なくさせていったのである。つまり、今日の様々な分野の表現に於いてエレクトロニクスメディアを抜きに語ることはできない以上、メディア自身の変容をうながすコンピューターの情報処理性やエレクトロニクスの拡大原理は、あえてメディア的身体といわなくても、むしろ必然的に状況を支配し続けてきているのである。換言すれば、今日の〈自由〉の概念も、例えば抑圧の対象としての〈自由〉や、制度の秩序からの逃走としての〈自由〉も、むしろ私達が現在置かれている絶対的メディアの支配下状況から生じた無化された精神や哲学の再構築の中にそうした〈自由〉の概念がひそんでいるのではないか、と思われる。
 パフォーマンス・アートが社会資本、とりわけ多くの表現や日常の分節や結び目に焦点を求め、さまざまなかたちで分節の変換や結び目を開いては再び閉じる実験をくりかえすのは、いわばその行為によって分節の無化を目論んでいるからである。又、芸術と社会の中間に立って異化するのは各々の無化によって生じる再生をうながすという役目を担っているからである。多種多様な性格をもったニンゲンという性格によって異化と無化を刺激するのではなく、まさに記号化され無化されたニンゲンという記号によって、各々の身体的な分節の効果の無化を目指すといってもよいだろう。その最も効果的な認識が電子メディア的身体という概念によってもたらされたのである。多分、考えてみるとパフォーマンス・アートはこうした中間領域に属し、自らを充足してゆく以上、論理的には価値を全くもっていないゲイジュツという可能性がある。しかし、全く価値のないゲイジュツというのは本当に存在するのだろうか。という問いも又ある。ゲイジュツがそれ自身表現行為と似た傾向を求めながらゲイジュツでないというのは一種の自家撞着以外何ものでもない。だがすでに、20世紀の芸術がその特殊な立場から離れて久しいことを思えば、あながちゲイジュツの無化と言う宣言や論理も適切でないといえないことはない。むしろ新しい芸術の可能は時によって一切の無化と言う論理を土台にして再構築してきた歴史といってもいいだろう。再び言うようだが、〈社会資本〉を源泉にするというのは、芸術が単に芸術の範囲で革新的になり自己矛盾を克服してきたのではないことを意味している。それをこの場合は大衆社会といい換えてもいいし、日常という概念としてもよいが、パフォーマンス・アートは、こうした日常という概念によって、世界の構造の組み変え立ち会ってきた営意の軌跡なのである。そうした、時代の変化とそれに伴う身体の変容をパフォーマンス・アートは源泉とする限り、価値の創造者であっても価値そのものにはなり得ないのは論理的帰結である。パフォーマンス・アートが無価値ではないか、という問いはその意味で、逆にいえばそれだけ表現の最初の発芽に属した形式によってパフォーマンス・アートは成立しているということになるだろう。大袈裟にいうと、パフォーマンス・アートこその無化性や無価値性によってさまざまなゲイジュツの置かれた立場をより明確に浮かびあがらせて立場をとっているのである。
 パフォーマンス・アートは表現ではない。さらにスタイルでもない。〈身体〉というフィルターを通してみた世界の構造や自己自身に向けられた一種の批評行為である。あるいは、表現という仮のスタイルを通してあらわれる他者の姿を写す鏡であり、自らの価値を無化することによってあらわれる他者=自己への純粋な異義申し立てといってもよいだろう。こうしてあらゆるパフォーマンス・アートは比喩的であり寓話的なものになり、現代のアレゴリーとしての立場を鮮明なものとしているのである。他者をもそして一切のラディカリズムや現象や状況さえも寓話的に扱うのである。主体や存在に対しての異義申し立てというよりは、はるかにそれらに対してさえも逃避的なのである。

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