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秘すれば花

 これまでのパフォーマンスの通史に近い分析はともあれ、私自身のパフォーマンスにとって微妙な影響を与えたものの一つに能芸の存在がある。いや能芸というよりもその創始者としての世阿弥の著作集にふれることによって、パフォーマンスという形式やアイディアではなく、その形式やアイディアを生み出した日本という風土に生きる固有の存在としての〈私〉とは何か、という思いが引き起こされる契機となったからである。しかし、これは私達の個人の系譜や伝承性によってある程度は説明できるかもしれないが、問題はその血や伝承に無意識的に与えられた文化的ルーツへの問いでもあった。それは一般的には「何故ここにパフォーマンスをする〈身体〉があるのだろう」「何故身体はかくも意にそむいて反応したり思いがけないしぐさを生みだすのだろう」とか、「何故〈私〉は私の身体や装置を通してパフォーマンスという印象をあなたに与えるのだろうか」…。など無数の〈私〉につきまとう謎についてのきっかけでもあった。いや〈私〉をつつんでいる歴史にその謎がある、といった方が正確かもしれない。意識的に構成したつもりの身体性が必ずといっていいほどいつも歴史という不明確な彼方から無意識的にあらわれてくるのを私は私のパフォーマンスの現場で感じるのを禁じえないのである。ゆっくりとした動作、凝固した現実、何気なくものをとり扱う時の手つき、ものの配置の方法、方法の時間的組み立て方など、それは他者に指摘されるまでもなく時としておきる日本的としかいいようのない感慨である。
 こうした度々、現場で起こる不可知な感覚が私の興味を能へ、そして近代能の創始者である世阿弥へ向かわせるようになった。
 通常私がパフォーマンスを行う時には、それこそ無数の記憶の断片としての素材を集めてくる。そしてその断片は言葉であれ素材であれ、一つ一つ自分流に分析されあるものは歴史的に解読された上で、トランプのシャッフルを切るようにランダムに配置される。配置の原理はいたって簡単である。つまり、私は基本的に〈私〉の身体も含めてあらゆる素材をただそこに提示するだけである。その最大の理由は観客という意志の目と、そして解読する、といういわば目の神話から決して逃れることはできないという理由で、私はそこに〈私〉も含めて様々な断片を提示するだけなのである。換言すれば〈私〉は多くの現象やそれまで存在していた様々な芸術の引用として存在し、又存在することによって引用そのものを体現する現象であるということである。
 こうした表現は私に限らず多くの表現者にとっては極めてなじみ深いものである。歴史の教科書を開くだけで想像力は満たされる場合もあれば、街の中へ入り込みさまざまな素材を集めてくるだけで事は足りることもある。あとは充分に計算した空間効果に注意を払い観客を注視すれば、観客とのコミュニケーションは達成される。
 ところが…。

 こうした思い込みや観念的作業とは全く裏腹に私の中に奇妙な生物が棲んでいるかのように、私の身体に向かってパフォーマンスの現場では思いがけない命令を下すことがある。それはほとんど見えない空間を探りあてたような感覚に近いもので、一定のコンセプトに基づいた動作に即興的に緩急を与えるものであったり、目線の位置を瞬間的に変化させたり、手先の感覚に微妙な作法的動作を命令したりするものである。あるいは、Aという物質とBという物質を結ぶ距離をわずかに変化させたり観念的な動作のプログラムとは別の動作によってそれまでの動作を突然裏切ったりする。時として最も自分自身にとって興味深いのは〈私〉をみているもう一人の私がはっきりと感じられることで、それはまるでその私が観客席に居て演ずる私をみつめているかのように感じる瞬間である。その観客席にいる〈私〉がパフォーマンスをしている私に向かってみえない指示を送ったりすることもある。それらのほとんどは決して理屈の上では説明のつかないものである。こうした現象は普通即興性と呼ばれるが、ここで私が関心があるのは無意識な心の動きのようなものである。なぜ、どうして、生まれてくるか、という疑問である。この無意識の即興性を考えてゆくと、それらは空間との関係、観客との関係、自らのコンディションとの関係、プログラムとの関係などが現象的には存在するが、単に現象だけでないことも確かなのである。さらに、冷たい空気、熱い空気、密度の濃い空間、薄い空間、空間の隙間にひそむディティールの発見が直接私の身体に及ぼしているとしか思えないこともある。だが、そうした分析を全て越えた力が働くことがこうした気分の最大の原因である。こうした無意識性の即興性は一体どこからくるのだろうか。すでに〈私〉という存在は無数の複製化された文化の集積体ではないか、とのべてきた。観念的に云えば、こうした集積体は実質的な学習もさることながら、幼児期の体験や、そうした時代の無自覚的な身体をとりまいている風景や習慣によっても説明が可能である。実際私はこのことについて《遺伝子》というパフォーマンスで試みてみたことがある。あるいは《砂漠》に行きたいという欲望によってある程度満たされたことも覚えている。〈母〉の寓話や〈祖々父〉の寓話によっても自分がどのような位置にあり、どんな風景をみてきたのか、ということも少し解りかけてきた。にもかかわらず特定のこうした〈私〉の見てきた風景が、特定のかたちでパフォーマンスに援用されてきたわけでもない。むしろ、その特定の記号を集積することによって、かえって普遍的なものの記号にたどりつくことを想定してきたつもりである。固有のものを通して普遍性にたどりつくシステムは近代の記号学的側面であるという考えに従えば、私も又、私という個人を通してパフォーマンスをあるいは近代を一つの記号としてとらえながら人間の生きる姿を描いてきたつもりである。例えばマルセル・デュシャン、ジョン・ケージ、アラン・カプロー、ヨーゼフ・ボイス、ヴィト・アコンチなどの作品と行為の軌跡はそのまま優れた近代の意識と重なりあっているという理由では記号的である。しかし、一方ではこうした近代社会の流れと、個人の創造力とはどこかで決して相容れない部分もあるのも確かである。応々にして、見るものを超越的な力や予感に導くものには、この個人的創造力が深く関わっていることは疑いもない事実である。そのことがいわば、観念にこびつりいた苔のようなもの=即興性となってあらわれるか、もしくは即興性をつかみとる独自の創造であることは勿論いうまでもないことである。無意識の即興性というのはこうしたことである勿論いうまでもなくこうした創造力はパフォーマンスの現場では個々に自然に成し遂げられることである。その意味では作品の中にうごめく心のひだを知ろうとするのは極めて幼児的欲望であることも充分すぎるほど自覚的であるといえよう。
 しかしこうした記号的立場=観念的立場と一種の自然主義的欲望の=無意識の即興性の中間に横たわるものを考えてゆくとその正体は身体をつかさどっているのは歴史の風景ではないかという想いを禁じ得ないのである。いや歴史の風景という仮説を立てることによって導かれる創造力によって私の中にうごめく何かの正体を知りたいということでもある。こうした無意識な身体のありようへの問いが、私が世阿弥へ魅せられていった原因であった。

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