かつて、私が世阿弥に興味をもった時、最初に想いうかべたのは世阿弥がどんな風景の中で、生まれ、育ち、優れた演能者としてたどりついていったかであった。例えば世阿弥の有名な著作である『申楽談儀』に描かれた当時の人物評や能の技術解説の他に私にとっては当時の風俗や四季折々の出来事が、まず世阿弥についての関心事の第一歩であった。それは、中世風景の中で生きている世阿弥という姿に思いをはせることでもあった。周辺の風景が世阿弥についてこれまで書かれた評伝以外のことを私に独自に語りかけてくれるのではないか、という全き個人の深い期待でもあった。あれこれ調べるまでもなく世阿弥の母は姫路から伊賀の父・観阿弥に嫁いでいる。そして世阿弥は1363年伊賀で生まれている。というわけで私は、ともあれ世阿弥に誘われるままに伊賀の旅に行くことになった。今から約10年前のことである。しかし、実は世阿弥の生まれた場所を歩きたいと思ったのは、私自身のパフォーマンスにおける無意識的な身体反応への問いとそれを仮説的に支える日本的なものへの興味の対象としての世阿弥紀行もさることながら、『申楽談義』に描かれた当時の実に生き生きとした舞台光景〈貞和5年(1349年)6月。京都四条河原では四条橋建立のための観進田楽が催されていた。将軍・足利尊氏はもとより二条良基、梶井宮尊胤法親王などの貴顕が見物し、さらに河原には六十二間余の半円形の三階建の竹の桟敷がつくられ、桟敷は人の入い出る隅もなくぎっしりと埋まり、その桟敷を十重二十重の群集がとりまいている。この大勢の観客の前に立ったのは本座の一忠と新座の花夜叉であり踊りに踊り、その姿の花=華に人々が酔いしれ興奮するうちに、さしもの大桟敷も大いに響き、大音響と共に桟敷は崩れ多数の死傷者をだした。その阿鼻叫喚の中でも一忠・花夜叉は冷えに冷えた舞いを舞い、貴顕は対岸にてしわぶきひとつせず凝視していた。〉に魅かれ、いつか世阿弥を主題としたフィルム=パフォーマンスの映画をつくりたいとひそかに思うこともあって、多分にロケーション的気分を兼ねて伊賀を訪れたのである。時々考えることがある。何故、多くの映画人はこれまで〈世阿弥〉のフィルムをつくらなかったのだろうか。(閑話休題)栄枯盛衰これほどドラマ性に富んだ人物は、千利休や葛飾北斎、出雲のお国や西行、芭蕉などと共に、日本の芸能史に類をみない。一介の田楽座の男が芸と男色を武器に室町幕府の中枢にたどりつき、さらには突然の追放、放逐による佐渡行きに加え晩年の禅竹に身を寄せながら静寂の中の春の椿の落下する風景の中で死ぬまでの一生は、能という芸とともに室町時代という文化燗熟の時代、権謀術数の背景を重ねあわすことで日本文化の一つの典型として描けると思うが、どんなものだろうか。こうしたことをつらつら考えながら私は、やがて伊賀に向かうことになった。 周知のように伊賀地方は世阿弥ばかりでなく、松尾芭蕉や服部半蔵、泥棒の親分のような百地三太夫もこの地の出身である。不思議なことに、この地の人々に共通しているのはそれぞれ歴史的に優れた仕事をしたにもかかわらず、伊賀に止まらず各地を転々と徘徊したり旅をしていることも含めどこか謎めいているということだ。四方を山でかこまれているのだが、山の向こうには京があり、東には伊勢、その先に尾張・三河があるという都への幻想が彼等を徘徊にかりたてていったのだろうか。ともあれ伊賀を訪れるとわかるが、西は柳生の里へ続き、北は甲賀から信楽、南は室生、長谷をへて桜井へ続いている。正平18年(1363年)に伊賀で生まれた世阿弥はその後父観阿弥と共に伊賀小波多(現在の名張市)を通り、長谷寺の猿楽に加わりながら結崎へ移ってゆく。結崎は現在の川西村で、そこに観阿弥が奉納舞をしたという糸井神社は今でもそのあたり一面が開発されたにもかかわらずこんもりとした小さな森を残し、当時を思い起こさせる風景である。ついでながらその近くを流れる大和川のほとりには〈面塚〉とよばれる石碑が建てられている。天から降ってきた、と伝えられる〈面塚〉は大きな椿の木の下に建てられており、丁度私が訪れた時には〈面塚〉のあたり一面が椿の花の落下したボタリとした花びらで埋まっており、夕方のせいもあってか、極めて極彩色な色が暗闇の中に沈んでいたことを思い出す。 資料によれば、観阿弥の一座は結崎に居をかまえ〈結崎座〉と名のっており、この結崎の地の糸井神社が奈良の春日大社と深い関係にあったことから、やがて〈結崎座〉は春日大社に進出した、としるされている。
話は少しそれるが、今から5年前。昭和60年12月16日に私は奈良の瓦宇という瓦屋さんを訪れたことがある当時、鬼瓦の展覧会を企画していたこともあってそこに滞在していた。午後になるとどこかでピーヒャララという笛の音がきこえる。それが〈春日若宮御祭り〉であり、偶然に見学する機会があった。丁度850年祭ということで例年になく盛大に行うのだと瓦宇の小林さんという職人さんが教えてくれた。行って驚いた。〈春日若宮御祭り〉は、能の前身ともいうべき田楽、猿楽の踊りを含む中世人の最も原型的な祭りの姿を今にとどめたものであったことである。その日は丁度珍しく雪になり、その白く積もった雪の中で16日の夜になると、御神体といわれるものが山からお旅所へ降りてきた。深夜12時になると春日若宮一帯の灯りは全て消され、真の闇がお旅所を包み、そのお旅所から白い神装束に身を包んだ人々が浄めの火をふみながら無言のうちに山を下りてくる様子は、ただひたすら私達の祖先が遠い昔に火をおそれあがめ自然を崇拝した時代の原始的な祭儀を思わせてくれたのである。さらにその後かがり火がお旅所の四方にたかれ、太鼓や笙や笛の音と共に、蘭陵王、納曽利、散手、貴徳、抜頭落蹲といわれる異人の衣装をつけた踊りがえんえんとくりひろげられた。これははるか遠くからきた異人たちが故郷をなつかしむ踊り=祭りではないか。それに先立って行われた神楽、東遊、田楽、猿楽、舞楽にしても、してみればそのルーツ発生地は私には解からないが、実に異国的にみえるのも不思議であった。当時の雪の風景がそれらに一層の興を加えたのはいうまでもない。
やがて、観阿弥は奈良から京へ行くことになる。その頃世阿弥は幼名を藤若といい史実によれば美しい少年であったという。この姿の美しさに将軍足利義満は魅かれ世阿弥は義満の寵愛を一身にうけることになる。寵愛とはいはば男色のことであろうが、ここでちょっと男色とパフォーマンスについて考えてみるのも一興である。私はかつて肉体には性の両義性(アンドロギュヌス)を飼っていると思っていたことがある。それは記号論的には両性具有的なまなざしを肉体はどこかで意図的に展開し、それらへの体験を通してより中性化する肉体=人間という記号に導かれるように構成されるだろうという意味である。例えば、ヴィト・アコンチが〈苗床〉という作品でマスターベーションを行っているが、このマスターベーションと関係する、画廊という制度やテレビメディアを使うという機械的なシステム表現方法にみられるのは、アコンチが実際のマスターベーションを行っていても、そこにあらわれるのはテレビを通した戯画的な光景の出現であれこそ、巷のポルノグラフィ的光景の再現ではないということ、つまりマスターベーションというワイセツにみられる行為でさえもここでは画廊=空間、テレビ=メディア、観客=劇場などのさまざまな制度的記号と同化しながら、男の性器という記号が暗示する人間の行為の象徴と、とりわけ現代人の孤独性にすりかえられているということに注目したい。中性化とは、こうした意図といってよい。別のいい方をすると、記号の配列によって行為は全く違う意味を生みだすということである。その最も象徴的な記号の組みかえが男性と女性の性の組みかえにあるのは、それが最も象徴的であり私達を性を通して人間存在のありようをゆすぶるからである。両義性=アンドロギュヌス的であるというのはこうした感覚の統合性の意味である。その場合、私達の存在は人間そのものという記号というよりは、むしろメディア的な存在であることを意味することになる。つまり自己変革装置といってよい。こうした身体の両義性を充分に利用することによってパフォーマンスは人間の存在のありかを問うものとして浮上する。ヴィト・アコンチは自らのパフォーマンスによってそれを証明しようとするのであろう。いや、そのような分析を私達にもたらし、語りかけてくれるといった方が正しい。
さて、世阿弥の場合はこうした両義性の論とは違うが、幼年期の美しさと、その美しさを権力がたやすく手に入れやすい環境と階級的習慣が足利義満をして世阿弥を寵愛の相手に選んだという歴史的背景は世阿弥を通してパフォーマンスをみるためのひとつの理解であることは否定できない。すすんで身を投じていったわけではないが、結果的には世阿弥が男色を経験したことは肉体的にも精神的にも、自らの中にあるアンドロギュヌス性を否応なく発見し、発見したことによって、自らすすんでその経験を能芸の中に生かし切っていたのではないか、という想像が働く。考えてみれば演能における男から女への変化、人間から霊的な存在に憑依する形式を世阿弥が演ずる時、男色的な経験はむしろ役に立つことはあっても邪魔なものではない。経験は想像力にとって最も魅力的な素材であること。見事に変化したことに観客が感じ興奮するのは、そうしたリアリティの官能を敏感に感じとる時でもある。心理的にいうと、精神の深い淵で演者と観客が共に性的興奮を味わっている姿を想像できる。習慣や風習以上に芸人にとって男色のもたらす経験が大きいのは、舞台の上の物語に華をもたらすためである。そして、その華=花は妖しければ妖しいほど観客を魅了する。こうした常に観客を意識するまなざしの感覚が、世阿弥の花であり上手であるといってもよいかもしれないと思うことがある。それはつまり自らの中にあっては無意識的に両義性に結びついていった経験の意識化である。 私にとっての世阿弥紀行は、その後何回かあり、その度に夏の伊賀から柳生へ歩いてみたり、名張の近くにある「観世発祥の地」の石碑を訪ねたりした。季節はいつも同じでなく、春の霞の時もあれば、冬の枯れた山々を観ながら名張から桜井まで歩いたこともある。木津川とか伊賀川とか大和川の淵に立つと今は土手も周辺の景色もすっかり変わったであろう中で、流れる川の水の音だけは変わらないと思いながら、そうした世阿弥の風景の中をさまざまに歩いていると、これまで世阿弥に関する研究室や語り尽くされた事実や分析とも違う幻影が目の前にあらわれてくるようになった。『申楽談義』や『風姿花伝』『花鏡』などに書かれた世阿弥の言葉が、一つ一つ全く違った意味を帯び、想像力をかきたてることがたびたび生まれるのだ。いわば、言葉による解釈というよりは風景の中から生まれた解釈であった。いや、それは私の経験からくる世阿弥についての心理的な謎解きと、風景の中で世阿弥になりきってみる楽しみといっていいかもしれない。それは言葉を手掛かりに、それまで定説のようになっている解釈に想像の力を借りて全く違う結論を導くことでもあったようだ。
「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という世阿弥の有名な言葉がある。この〈花〉とは舞台の美しさを花にたとえながら能芸の〈花〉=美しさを技芸の花と人生の花に例えたところに妙例がある、とされている。「いずれの花か散らで残るべき」「散るゆえによりて、咲く頃あれば珍しきなり」(風姿花伝)といい「そもそも花とは、咲くによりて面白く、散るによりて珍しきなり」(拾玉得花)と世阿弥は書く。『すなわち、いかなる花も永久に散らずに残るということはありえない。散るからこそ、再び時節がめぐってきて咲く花が珍しく、新鮮に感じられるのである。それと同じように、能もひとつの表現ばかりとらわれぬ、停滞を拒む態度こそ魅力の出発点だというのである。』(増田正造/能の表現/中公新書)。増田正造は今日では能の最も良き理解者の一人であるが、能芸を花に例えるならこうした珍しい花や、面白い花をあらわすにあたって、後者はその花をだすタイミングが巧妙でなければならない、と説いている。いわば今日風にいえば即興的なタイミングであろうか。世阿弥の言葉を借りれば「ただ花は見る人の心に珍しきが花なり」である。さらに再び増田正造の言葉を引用すれば、『さらに世阿弥は、秘伝を知っていることすら人にさとられるなと言い、さらにはその心を自分にもかくせと指示する』と花にたくした能の奥義を説明する。
「秘すれば花」という言葉は美しい言葉である。「秘」といい「花」といいまことに日本人好みの言葉である。
仮面と花の出会い。それは〈秘すれば花〉の「花」の本当の正体は草冠をとった化けるのケであり、仮面のケと同義語ではなかったかという連想によってもたらされた。ケ=化はそのまま能芸の基本ともいえるスタイルである変化の化にあたり、もうひとつのケ=仮はまたカミや憑依者を扱う舞台に立つ身分なき民衆としての芸能人が唯一仮の人間らしい気持ちになれるケではなかったかという想像である。彼等からみればさらに人間の気配のケであるというもう一つの理由によっても〈秘すれば花〉の「花」の部分をケと読むことは、隠された必然であったのではないか。私は花の本来の意味をどこかにけとばしその考えに夢中になった。考えれば考える程納得がゆくように思えた。そしてこの仮説こそが私自身の生き生きとした世阿弥を手に入れた瞬間でもあったのである。 隠喩や比喩、あるいは寓話とは、民衆が偉大なる王権に対抗して唯一、声なき声、姿なき姿として自分達の意識や自由の声を反映させることのできる形式である。
世阿弥への興味は今も尽きない。〈私〉というパフォーマンスをとりまく〈身体〉の問題にふれる時、いつも世阿弥について考え、中世人の生き方について想像をめぐらす。古い能芸の形式の中にある即興という概念や一期一会的な思想、さらには一回能というかたちが〈ハプニング〉や〈フルクサス〉などの実験芸術を思い起こさせる点で、能は現代のパフォーマンスに通底する現象だと思うことがあるのだ。例えばヨーゼフ・ボイスの作品をみた時に感じた、ヨーロッパ―文化は記憶の断片によって再生するのではないかという文化性と、「いづれの花か散らで残るべき」と世阿弥が言う、散ることによって〈花〉は新たな姿をあらわすというこの国の文化と美意識の間の共有性についてはどこか似ているかもしれないということ…。 伊賀から名張そして長谷寺を経由して桜井へ向かい、奈良から京都へ続く私の世阿弥への旅はのちにさらに佐渡ヶ島まで続くことになった。その跡をずーっと今、記憶の中でトレースして歩いてみると描かれた歴史には見みえてこない季節の感情のひだがつたわってくる。いぶし瓦に夢の彼方にたなびく雲の動きや流れる川の音の微妙な違い。冬にはみえなかった木々の息吹が春にはもえるように輝いている。今とは違って中世はその道にいたるところ死が無造作に転がっていたことも、古い迷路のような土蔵でできた壁には影のように残っている。佐渡の長谷寺へ行ったのは夏の盛りであったが、海鳴りのような蝉の声にしばし茫然と立ちすくんだこともある。春の若狭の海はおだやかで無数の波がキラキラと光っていたが、かつてこの海を小舟一つで佐渡ヶ島へ向かった世阿弥が見みたこのおだかな風景は同じだったのだろうかとも思う。風景は実にさまざまな言葉を歴史につけ加えてくれる。さらに想像もその一つである。想像によって物語が生まれるのは歴史に風景が加わった時であると思わずにはいられない。世阿弥の旅はパフォーマンスの度にあらわれる〈私〉という感情の行方を確認する旅でもあった。しかし、旅という比喩に終わりのないように私の感情は今も終わらない旅にでかけている。 |