BACK HOME NEXT

風景の中の世阿弥

 かつて、私が世阿弥に興味をもった時、最初に想いうかべたのは世阿弥がどんな風景の中で、生まれ、育ち、優れた演能者としてたどりついていったかであった。例えば世阿弥の有名な著作である『申楽談儀』に描かれた当時の人物評や能の技術解説の他に私にとっては当時の風俗や四季折々の出来事が、まず世阿弥についての関心事の第一歩であった。それは、中世風景の中で生きている世阿弥という姿に思いをはせることでもあった。周辺の風景が世阿弥についてこれまで書かれた評伝以外のことを私に独自に語りかけてくれるのではないか、という全き個人の深い期待でもあった。あれこれ調べるまでもなく世阿弥の母は姫路から伊賀の父・観阿弥に嫁いでいる。そして世阿弥は1363年伊賀で生まれている。というわけで私は、ともあれ世阿弥に誘われるままに伊賀の旅に行くことになった。今から約10年前のことである。しかし、実は世阿弥の生まれた場所を歩きたいと思ったのは、私自身のパフォーマンスにおける無意識的な身体反応への問いとそれを仮説的に支える日本的なものへの興味の対象としての世阿弥紀行もさることながら、『申楽談義』に描かれた当時の実に生き生きとした舞台光景〈貞和5年(1349年)6月。京都四条河原では四条橋建立のための観進田楽が催されていた。将軍・足利尊氏はもとより二条良基、梶井宮尊胤法親王などの貴顕が見物し、さらに河原には六十二間余の半円形の三階建の竹の桟敷がつくられ、桟敷は人の入い出る隅もなくぎっしりと埋まり、その桟敷を十重二十重の群集がとりまいている。この大勢の観客の前に立ったのは本座の一忠と新座の花夜叉であり踊りに踊り、その姿の花=華に人々が酔いしれ興奮するうちに、さしもの大桟敷も大いに響き、大音響と共に桟敷は崩れ多数の死傷者をだした。その阿鼻叫喚の中でも一忠・花夜叉は冷えに冷えた舞いを舞い、貴顕は対岸にてしわぶきひとつせず凝視していた。〉に魅かれ、いつか世阿弥を主題としたフィルム=パフォーマンスの映画をつくりたいとひそかに思うこともあって、多分にロケーション的気分を兼ねて伊賀を訪れたのである。時々考えることがある。何故、多くの映画人はこれまで〈世阿弥〉のフィルムをつくらなかったのだろうか。(閑話休題)栄枯盛衰これほどドラマ性に富んだ人物は、千利休や葛飾北斎、出雲のお国や西行、芭蕉などと共に、日本の芸能史に類をみない。一介の田楽座の男が芸と男色を武器に室町幕府の中枢にたどりつき、さらには突然の追放、放逐による佐渡行きに加え晩年の禅竹に身を寄せながら静寂の中の春の椿の落下する風景の中で死ぬまでの一生は、能という芸とともに室町時代という文化燗熟の時代、権謀術数の背景を重ねあわすことで日本文化の一つの典型として描けると思うが、どんなものだろうか。こうしたことをつらつら考えながら私は、やがて伊賀に向かうことになった。
 周知のように伊賀地方は世阿弥ばかりでなく、松尾芭蕉や服部半蔵、泥棒の親分のような百地三太夫もこの地の出身である。不思議なことに、この地の人々に共通しているのはそれぞれ歴史的に優れた仕事をしたにもかかわらず、伊賀に止まらず各地を転々と徘徊したり旅をしていることも含めどこか謎めいているということだ。四方を山でかこまれているのだが、山の向こうには京があり、東には伊勢、その先に尾張・三河があるという都への幻想が彼等を徘徊にかりたてていったのだろうか。ともあれ伊賀を訪れるとわかるが、西は柳生の里へ続き、北は甲賀から信楽、南は室生、長谷をへて桜井へ続いている。正平18年(1363年)に伊賀で生まれた世阿弥はその後父観阿弥と共に伊賀小波多(現在の名張市)を通り、長谷寺の猿楽に加わりながら結崎へ移ってゆく。結崎は現在の川西村で、そこに観阿弥が奉納舞をしたという糸井神社は今でもそのあたり一面が開発されたにもかかわらずこんもりとした小さな森を残し、当時を思い起こさせる風景である。ついでながらその近くを流れる大和川のほとりには〈面塚〉とよばれる石碑が建てられている。天から降ってきた、と伝えられる〈面塚〉は大きな椿の木の下に建てられており、丁度私が訪れた時には〈面塚〉のあたり一面が椿の花の落下したボタリとした花びらで埋まっており、夕方のせいもあってか、極めて極彩色な色が暗闇の中に沈んでいたことを思い出す。
 資料によれば、観阿弥の一座は結崎に居をかまえ〈結崎座〉と名のっており、この結崎の地の糸井神社が奈良の春日大社と深い関係にあったことから、やがて〈結崎座〉は春日大社に進出した、としるされている。

 話は少しそれるが、今から5年前。昭和60年12月16日に私は奈良の瓦宇という瓦屋さんを訪れたことがある当時、鬼瓦の展覧会を企画していたこともあってそこに滞在していた。午後になるとどこかでピーヒャララという笛の音がきこえる。それが〈春日若宮御祭り〉であり、偶然に見学する機会があった。丁度850年祭ということで例年になく盛大に行うのだと瓦宇の小林さんという職人さんが教えてくれた。行って驚いた。〈春日若宮御祭り〉は、能の前身ともいうべき田楽、猿楽の踊りを含む中世人の最も原型的な祭りの姿を今にとどめたものであったことである。その日は丁度珍しく雪になり、その白く積もった雪の中で16日の夜になると、御神体といわれるものが山からお旅所へ降りてきた。深夜12時になると春日若宮一帯の灯りは全て消され、真の闇がお旅所を包み、そのお旅所から白い神装束に身を包んだ人々が浄めの火をふみながら無言のうちに山を下りてくる様子は、ただひたすら私達の祖先が遠い昔に火をおそれあがめ自然を崇拝した時代の原始的な祭儀を思わせてくれたのである。さらにその後かがり火がお旅所の四方にたかれ、太鼓や笙や笛の音と共に、蘭陵王、納曽利、散手、貴徳、抜頭落蹲といわれる異人の衣装をつけた踊りがえんえんとくりひろげられた。これははるか遠くからきた異人たちが故郷をなつかしむ踊り=祭りではないか。それに先立って行われた神楽、東遊、田楽、猿楽、舞楽にしても、してみればそのルーツ発生地は私には解からないが、実に異国的にみえるのも不思議であった。当時の雪の風景がそれらに一層の興を加えたのはいうまでもない。
 能に先立つ田楽や猿楽が一節によれば中国から伝えられた曲芸の一つであったという史実の検証は別としても、春日若宮御祭りにあらわれる長時間の壮大な物語性をもった祭りはやはりどこか異国的である。人の一生、神の一生を描いているとは思わないが、壮大さや劇的である構成は、それまでのどこの日本の祭りとも違っているように感じられた。やはり、その原型は異人故郷をなつかしんで行った祭りではないか、いう思いは今も消えることはない。
 世阿弥が死んでから今日で約630年位たっている。世阿弥もこうした風景はたびたびみていたのであろうか。いやむしろ猿楽の一座の一員として登場人物の一人であったのではなかったか、と想像をめぐらすこともできよう。
すると今よりももっと異人達は異人達の姿をし、異人の匂いをまきちらしながら異人の舞いを舞っていたのではないかと考えるのは楽しい。想像ついでに書けば、世阿弥の数々の著作は能の歴史と所作に力点が置かれているが、芸能の著作としてはきわめてシステマチックに整理され理論的であるという点で、さらにそれまでのどの能芸者ももちあわせなかった合理性によって書かれたということは、心理の深いところで異人=中国人や中近東人の合理性なり大陸性とつながっていないか、ということを考えてみるのも一つの能の理解につながるかもしれないと思うことがある。ロマンチックな云い方をすれば、「花伝書」は異人たちの記憶の書でないか。考えれば考えるほど、〈春日若宮御祭り〉の形式は日本の古来の伝統的な祭りとはあまりにかけ離れた大陸性を感じざるを得ないものがある。

 やがて、観阿弥は奈良から京へ行くことになる。その頃世阿弥は幼名を藤若といい史実によれば美しい少年であったという。この姿の美しさに将軍足利義満は魅かれ世阿弥は義満の寵愛を一身にうけることになる。寵愛とはいはば男色のことであろうが、ここでちょっと男色とパフォーマンスについて考えてみるのも一興である。私はかつて肉体には性の両義性(アンドロギュヌス)を飼っていると思っていたことがある。それは記号論的には両性具有的なまなざしを肉体はどこかで意図的に展開し、それらへの体験を通してより中性化する肉体=人間という記号に導かれるように構成されるだろうという意味である。例えば、ヴィト・アコンチが〈苗床〉という作品でマスターベーションを行っているが、このマスターベーションと関係する、画廊という制度やテレビメディアを使うという機械的なシステム表現方法にみられるのは、アコンチが実際のマスターベーションを行っていても、そこにあらわれるのはテレビを通した戯画的な光景の出現であれこそ、巷のポルノグラフィ的光景の再現ではないということ、つまりマスターベーションというワイセツにみられる行為でさえもここでは画廊=空間、テレビ=メディア、観客=劇場などのさまざまな制度的記号と同化しながら、男の性器という記号が暗示する人間の行為の象徴と、とりわけ現代人の孤独性にすりかえられているということに注目したい。中性化とは、こうした意図といってよい。別のいい方をすると、記号の配列によって行為は全く違う意味を生みだすということである。その最も象徴的な記号の組みかえが男性と女性の性の組みかえにあるのは、それが最も象徴的であり私達を性を通して人間存在のありようをゆすぶるからである。両義性=アンドロギュヌス的であるというのはこうした感覚の統合性の意味である。その場合、私達の存在は人間そのものという記号というよりは、むしろメディア的な存在であることを意味することになる。つまり自己変革装置といってよい。こうした身体の両義性を充分に利用することによってパフォーマンスは人間の存在のありかを問うものとして浮上する。ヴィト・アコンチは自らのパフォーマンスによってそれを証明しようとするのであろう。いや、そのような分析を私達にもたらし、語りかけてくれるといった方が正しい。
 さらに、アーティストのグループのいくつかは(多分他の分野、例えば経済やスポーツや政治などにくらべてだが)ホモ・セクシュアリティに於いて多様である。それは多分芸術的行為が常に心理的にはどこかでこうしたアンドロギュヌス性と関わりをもっており、一般的な意味での性的倒錯が観念から実体へ、実行されていることを暗示している。もちろんこのことは単に一つの現象であるにすぎないが、パフォーマンスが近代以降どこかで常に記号性=普遍性を意識してきたことと無縁ではないように思われる。人間の存在を強調するあまり、性を超越したいという心理的な欲求が働くせいであろうか。現代のホモ・セクシュアリティへの傾斜にひそむのは、こうした一種の人間表出性とでもいうような両義牲であるのは否定できない。それはそのままパフォーマンスに於ける身体の問題が現代の芸術に特徴的な、自己表出性=自己同一性と重なりあっているとみなすこともできるかもしれない。つまり、極めて、他者的メディアに自己を分析している冷たい自己確認のせいであるとも…。(閑話休題)

 さて、世阿弥の場合はこうした両義性の論とは違うが、幼年期の美しさと、その美しさを権力がたやすく手に入れやすい環境と階級的習慣が足利義満をして世阿弥を寵愛の相手に選んだという歴史的背景は世阿弥を通してパフォーマンスをみるためのひとつの理解であることは否定できない。すすんで身を投じていったわけではないが、結果的には世阿弥が男色を経験したことは肉体的にも精神的にも、自らの中にあるアンドロギュヌス性を否応なく発見し、発見したことによって、自らすすんでその経験を能芸の中に生かし切っていたのではないか、という想像が働く。考えてみれば演能における男から女への変化、人間から霊的な存在に憑依する形式を世阿弥が演ずる時、男色的な経験はむしろ役に立つことはあっても邪魔なものではない。経験は想像力にとって最も魅力的な素材であること。見事に変化したことに観客が感じ興奮するのは、そうしたリアリティの官能を敏感に感じとる時でもある。心理的にいうと、精神の深い淵で演者と観客が共に性的興奮を味わっている姿を想像できる。習慣や風習以上に芸人にとって男色のもたらす経験が大きいのは、舞台の上の物語に華をもたらすためである。そして、その華=花は妖しければ妖しいほど観客を魅了する。こうした常に観客を意識するまなざしの感覚が、世阿弥の花であり上手であるといってもよいかもしれないと思うことがある。それはつまり自らの中にあっては無意識的に両義性に結びついていった経験の意識化である。
 その後、世阿弥は京都を中心にかつての一介の最も身分低き河原ものが権力の側に身を寄せながら能をくりひろげてゆく歴史をたどってゆくことになる。この当時は世阿弥の他に近江猿楽の大王や、田楽の喜阿弥など、先のフィルムの感想の部分で『申楽談義』の一説に出てくる一忠などの名手が周辺にいたことも、世阿弥の芸が競演能によって益々確かなものにしていったようである。

 私にとっての世阿弥紀行は、その後何回かあり、その度に夏の伊賀から柳生へ歩いてみたり、名張の近くにある「観世発祥の地」の石碑を訪ねたりした。季節はいつも同じでなく、春の霞の時もあれば、冬の枯れた山々を観ながら名張から桜井まで歩いたこともある。木津川とか伊賀川とか大和川の淵に立つと今は土手も周辺の景色もすっかり変わったであろう中で、流れる川の水の音だけは変わらないと思いながら、そうした世阿弥の風景の中をさまざまに歩いていると、これまで世阿弥に関する研究室や語り尽くされた事実や分析とも違う幻影が目の前にあらわれてくるようになった。『申楽談義』や『風姿花伝』『花鏡』などに書かれた世阿弥の言葉が、一つ一つ全く違った意味を帯び、想像力をかきたてることがたびたび生まれるのだ。いわば、言葉による解釈というよりは風景の中から生まれた解釈であった。いや、それは私の経験からくる世阿弥についての心理的な謎解きと、風景の中で世阿弥になりきってみる楽しみといっていいかもしれない。それは言葉を手掛かりに、それまで定説のようになっている解釈に想像の力を借りて全く違う結論を導くことでもあったようだ。

 「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という世阿弥の有名な言葉がある。この〈花〉とは舞台の美しさを花にたとえながら能芸の〈花〉=美しさを技芸の花と人生の花に例えたところに妙例がある、とされている。「いずれの花か散らで残るべき」「散るゆえによりて、咲く頃あれば珍しきなり」(風姿花伝)といい「そもそも花とは、咲くによりて面白く、散るによりて珍しきなり」(拾玉得花)と世阿弥は書く。『すなわち、いかなる花も永久に散らずに残るということはありえない。散るからこそ、再び時節がめぐってきて咲く花が珍しく、新鮮に感じられるのである。それと同じように、能もひとつの表現ばかりとらわれぬ、停滞を拒む態度こそ魅力の出発点だというのである。』(増田正造/能の表現/中公新書)。増田正造は今日では能の最も良き理解者の一人であるが、能芸を花に例えるならこうした珍しい花や、面白い花をあらわすにあたって、後者はその花をだすタイミングが巧妙でなければならない、と説いている。いわば今日風にいえば即興的なタイミングであろうか。世阿弥の言葉を借りれば「ただ花は見る人の心に珍しきが花なり」である。さらに再び増田正造の言葉を引用すれば、『さらに世阿弥は、秘伝を知っていることすら人にさとられるなと言い、さらにはその心を自分にもかくせと指示する』と花にたくした能の奥義を説明する。
こうした世阿弥の花に関する一種の定説は世阿弥の研究者にとってまさに〈初心〉のことであるのはいうまでもない。能を能として正面からとらえてゆくと、結果としてそうなる。
 しかしこうした一般的な解釈は世阿弥について、又は能についての知識を常識的なものにするには役立つとしても、私にとってはどこか釈然としないものがあるのも確かなのである。それは多分、書物を解釈として読みとることによって現れる世阿弥の姿が、形容は別としても、生き生きとした中世の能芸人としての姿が目の前にあらわれてこないいらだちであろうか。世阿弥ばかりではない。世阿弥を通して描かれている中世人の生きた姿がなかなかあらわれてこないのである。それは書物の中で躯のようになって動かない肖像画のような中世人のようにみえるのだ。このことが多分常識的な解釈の中から何か釈然としない思いにいたる私の心理の過程であろう。つまり、虚構であれ寓話であれ私は生き生きとした表情をもち身体をもった中世人・世阿弥の姿をみてみたい、という気持ちがある。勿論多くの研究者からいわせれば、こうしたいらだちは単に書物からくみとる想像力の欠如であるという指摘は正しい。だが別のいい方をすれば、その多くの研究者が描きだす世阿弥像がかくも似た肖像になるのはどうしてだろうと思うのだ。筆法やデティール、構図の違いはあってもそこには舞い踊り、喜怒哀楽を生涯のドラマにたくした中世人の生き生きとした身体はなかなかみえてこないのである。換言すれば、たった一行でもいいから私なりの世阿弥像、それも生き生きとした身体をもった中世人を描いてみたいという気持ちが先走り、その独善的な想像力が、定説から離れてさらに世阿弥へ傾斜してゆく最大の理由であるといってもよいのだ。

 「秘すれば花」という言葉は美しい言葉である。「秘」といい「花」といいまことに日本人好みの言葉である。
 何度目かの世阿弥紀行の時、私は桜井から奈良へ向かう山之辺の道を歩いていた。三輪神社から天理へ向かう山側の細い道であり、くねくねと曲がった山坂の多いこの道は今は観光用の道路としてよく紹介されるようになったが、それでも秋の終わりくらいになるとあまり歩く人もいない。三輪神社の山門のそばの古い格式をもった家でにゅうめんを食べ、境内の中の三輪山へ登る入口にある狭井神社の湧き水を飲んで山之辺の道を歩いてゆくと、道々には天皇に由縁の深いいろいろな神社や御神体が山となっている風景に出会う。山之辺の道は当時世阿弥が歩いた道とは違うが、一方で多くの中世人が桜井から奈良、奈良から京へ向かう道である。
 なによりここは、あまり変化のない風景のたたずまいがあってこの界隈では中世の面影を感じるにはまことにつごうのよいところであることも、私が山之辺の道を歩く理由の一つである。ところどころの村の入口には太い縄が道や川を隔てた向かい合わせの木に結ばれ、そこに藁でつくった男根とも女陰とも思われるオブジェがゆれている。かつて民族学者の鳥越憲三郎は著書「雲南への道」で指摘した邪鬼払いであると同時に五殻豊饒のしるしであり、又鳥居の前身であるというこの藁のシンボルがこのあたりの古さを一層増して感じさせてくれた記憶がある。
 この時の旅の目的の一つはあいかわらずの世阿弥の道を通して風景をみることもあったが、もう一つは近くの天理参考館で世界中の土俗的な仮面をみたいと思っていたことである。
 今思うと、どうしてそんな気持ちになったのかは知らないが、その時天理参考館でさまざまな仮面をみているうちにふと世阿弥が仮面をつけて舞う様が目の前に浮かんできた。数カ月前に観た〈卒都婆小町〉であったかそれ以前に観た〈道成寺〉であったかは定かではないが、女面をつけた世阿弥の姿が天理参考館の数々の仮面に重なりながらふと浮かんでは消えた。仮面と共に遊ぶというのか、夢幻のうちに遊ばされているというのかとても、ともかく一つ一つの仮面が万国の衣裳をつけて世阿弥と一緒に踊っている。まるでそれは人一人いない静かな天理参考館の中でおきた夢幻能のようでもあった。
その中には春日若宮御祭りでみた異人達の踊りもよみがえってくる。一瞬の出来事であった。
 そして、その一瞬の白昼夢がもたらした直感が仮面と世阿弥の〈秘すれば花〉という言葉にふいに結びつき、結びつくまもなく氷解し一つになったことを感じた。はじめて私は世阿弥の姿をこの時ほど生き生きと感じたことはない。

 仮面と花の出会い。それは〈秘すれば花〉の「花」の本当の正体は草冠をとった化けるのケであり、仮面のケと同義語ではなかったかという連想によってもたらされた。ケ=化はそのまま能芸の基本ともいえるスタイルである変化の化にあたり、もうひとつのケ=仮はまたカミや憑依者を扱う舞台に立つ身分なき民衆としての芸能人が唯一仮の人間らしい気持ちになれるケではなかったかという想像である。彼等からみればさらに人間の気配のケであるというもう一つの理由によっても〈秘すれば花〉の「花」の部分をケと読むことは、隠された必然であったのではないか。私は花の本来の意味をどこかにけとばしその考えに夢中になった。考えれば考える程納得がゆくように思えた。そしてこの仮説こそが私自身の生き生きとした世阿弥を手に入れた瞬間でもあったのである。
 いうまでもなく中世・室町時代は厳しい身分社会である。こうした絶対的な身分社会においては一つの言葉、一瞬の反抗的態度が文字通り命取りになる。室町時代初期は私にいわせれば多分日本の最初の文芸復興期ではなかったかと思うが、それとは別にそうした文化的に復興した時代(換言すれば移入文化としての中国や朝鮮の文化がはじめて日本の土俗的なものや貴族文化と結びついたのちに融合し独自の形式を生んだ時代ともいえよう)にあっても当然のように身分は厳しく定められていたことを考えれば、田楽や猿楽にしても文化的に重要であったため貴顕の人々に愛されたわけではないという前提条件はまず頭に入れておく必要がある。つまりそれは美しいものを手元においておくことによって権力者が絶対的支配者であることの証であったということだ。世阿弥はそうした社会の中では、河原者に近くあるいはまれ人以下の卑しい身分の一人であったのであり。権力者からみれば最下層の人々の一群である。そこに世阿弥の悲劇がある。芸の力もさることながらその美しさによって寵愛を受けた世阿弥にとっては、逆に常につきまとう最下層への落下という不安な運命を同時に背負ったものであったともいえるのである。
芸の上手と身分の卑しさがいつも世阿弥をして深い心の底に断層をつくっていたことは充分に予想される。ましてや第一人者になればなるほどこの悲しみは深くなるのだ。のちに寵愛をうけた足利義満から6代将軍義教に代わると同時に世阿弥はほとんど何の理由らしい理由もなく全ての職を解かれ栄華を失ない放逐されてしまう運命に遭遇するのも、決してこの身分社会とは無縁なものではないということの証左ともいえるかもしれない。さらに後年になって、再び追い打ちをかけられるようにこれも又ほとんど何の理由もなく佐渡ヶ島へ流されてしまう。それは前後して亡くなった長男の元雅の死も含めて世阿弥の悲しみはいかばかりであったかと想像するまでもない。こうした絶対的な身分社会の運命を生きる時代人としての意識が心のなぐさめと、芸への執着を伴った精神のコンプレックスが数々の書物を残すきっかけとなったのではないかと思う。つまり世阿弥の数々の書物は過酷な運命を生きなければならなかった中世人の悲しみの証言であろう。いはば悲しみを救済してくれる存在、それが世阿弥にとっては能の書物を書くことであったともいえる。事実、義教によって一切の身分をはぎとられ追放されてからの世阿弥は「風姿花伝」にはじまる「花鏡」「拾玉得花」「申楽談義」「夢跡一紙」「金島書」などを晩年までかきつづけている。
 こうして、書くことによって心理的な救済を願い、書き続けることによって能芸者の第一人者であることを誇示しようとした世阿弥にとって、書くことは同時に能技術にたくした人生の書でもあったと推察するのはたやすい。だが一方で、書くことはその手法や言葉の意によってつねにどこかに自らの意志を表明する心理の発露としての作業であること考えれば、その一言一句によっては卑しい身分の一群に属する世阿弥にとって、どんな結果をもたらすかということも又容易に想像できたはずである。一つ間違えば批判であれ批評であれそれは現実的な死と背中あわせであった時代である。それは勿論個人の死にとどまることなく、一族の死にも関わっていた時代である。そうした階級社会のもつ力を世阿弥は最も良く知っていた能芸者の一人である。幼年期、義満に寵愛されていた時に世阿弥はさまざまな死をまのあたりに見ていたはずである。換言すれば書くという行為それ自体が極めて危険な時代でもあったということである。にもかかわらず書くことを決意した世阿弥にとって、書物は純粋な技術の書でなければならなかったのは当然であった。裏返せばそれ以外書けなかったということでもある。あるいは、その書物をのちに〈秘伝〉として誰の目にも触れさせないかたちで残したのも、表面上は技術の書といってもそこに書かれている言葉のもつ力を世阿弥はよく知っていたからに他ならないということもできよう。
 こうした時代背景や世阿弥の心理を私の世阿弥論をベースにして組み立ててゆくはてに、〈秘すれば花〉とはすなわち〈秘すればケ〉=変化する〈私〉の心理という推理が生まれることになった。〈花〉とはケであり化、つまり化することによって能芸人ははじめて身分の運命にとらわれることなく自由にいきることができる、という解釈である。つまり身分から解放されたいという世阿弥の叫びが私の胸の中に去来する。戸井田道三は著作『能芸論』で「最下層の賤民としての芸能人の哀しみが、能面という喜怒哀楽を極度におさえた無表情さの中にくみとれる」とし、その能面のもつ中性的美しさは「だれも、たがいに、他人の哀しみをどうすることも出来ないという不幸の中にある」という当時の能の状況を描いている。
 つまり仮面をもちだすまでもなく、花とは世阿弥の内なる声である。声なき声である。自由になりたいという声である。私にはそのように感じられたのであった。

 隠喩や比喩、あるいは寓話とは、民衆が偉大なる王権に対抗して唯一、声なき声、姿なき姿として自分達の意識や自由の声を反映させることのできる形式である。

 世阿弥への興味は今も尽きない。〈私〉というパフォーマンスをとりまく〈身体〉の問題にふれる時、いつも世阿弥について考え、中世人の生き方について想像をめぐらす。古い能芸の形式の中にある即興という概念や一期一会的な思想、さらには一回能というかたちが〈ハプニング〉や〈フルクサス〉などの実験芸術を思い起こさせる点で、能は現代のパフォーマンスに通底する現象だと思うことがあるのだ。例えばヨーゼフ・ボイスの作品をみた時に感じた、ヨーロッパ―文化は記憶の断片によって再生するのではないかという文化性と、「いづれの花か散らで残るべき」と世阿弥が言う、散ることによって〈花〉は新たな姿をあらわすというこの国の文化と美意識の間の共有性についてはどこか似ているかもしれないということ…。
 いささか結論めいたいい方をすれば私の〈身体〉は今もこの二つの距離をゆれ動いている。一方は近代主義的観念としての身体であり、他方は歴史的身体の感情についてである。

 伊賀から名張そして長谷寺を経由して桜井へ向かい、奈良から京都へ続く私の世阿弥への旅はのちにさらに佐渡ヶ島まで続くことになった。その跡をずーっと今、記憶の中でトレースして歩いてみると描かれた歴史には見みえてこない季節の感情のひだがつたわってくる。いぶし瓦に夢の彼方にたなびく雲の動きや流れる川の音の微妙な違い。冬にはみえなかった木々の息吹が春にはもえるように輝いている。今とは違って中世はその道にいたるところ死が無造作に転がっていたことも、古い迷路のような土蔵でできた壁には影のように残っている。佐渡の長谷寺へ行ったのは夏の盛りであったが、海鳴りのような蝉の声にしばし茫然と立ちすくんだこともある。春の若狭の海はおだやかで無数の波がキラキラと光っていたが、かつてこの海を小舟一つで佐渡ヶ島へ向かった世阿弥が見みたこのおだかな風景は同じだったのだろうかとも思う。風景は実にさまざまな言葉を歴史につけ加えてくれる。さらに想像もその一つである。想像によって物語が生まれるのは歴史に風景が加わった時であると思わずにはいられない。世阿弥の旅はパフォーマンスの度にあらわれる〈私〉という感情の行方を確認する旅でもあった。しかし、旅という比喩に終わりのないように私の感情は今も終わらない旅にでかけている。

BACK HOME NEXT


(C) GOJI HAMADA All Rights Reserved