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寓話(2) ― ツガルのローリー・アンダーソン

 父は母が亡くなってからいっそうひどく昔のことを話すようになってきた。父にとって母は唯一の現在形ったのかもしない。アルイワ脳軟化の初期症状だろうか。その代わりといってはなんだが表情は優しくなった。長い間の連れあいが亡くなって表情が優しくなったというのもオカシナことだが子供からみると父というのは他人であり母は同体という感じがする。唐突ではあるが私は母が亡くなった時もさほど涙はでなかった。私が偶然に母の腹から出てきたように母も又自然に大地の腹の中に帰っていったような自然の摂理を感じたものだ。しかし、その時になってみないと解からないが、もしいつか父が亡くなる日が来たら私は随分と泣くに違いないと思うそれはなんだか、母は自然で父は人工のような気がするからである。
 父が優しい表情になった理由は解からないが明治生まれの父と大正生まれの母との間に過去にどんな関係があったか、昭和生まれの私には解からないことだ。ただ昔は随分きつい顔つきをした父であった。絵を描いていたから母はしばしば泣いていた。絵を描いていたから泣いていたわけでは勿論無い。
絵を描いているうちに父はフツウの人からゲイジュツカに変身(心)してゆくのである。母はそのゲイジュツカにぶたれたり悪口雑言の限りを言われたりするのである。「まるで狐でもついてるみたいだネェ」と母はそのことを言っていた。そのうち父はふつうの人からゲイジュツカに変身するのに絵を描くだけの行為からだけでなく、石につまづいたり、食卓の上の魚の顔をみたり、テレビを見ている最中とか、トイレに入る瞬間とか、とかく余人にはうかがい知れぬ場面で変身するようになった。私はこうした場面を直接みてはいないがいつも遠い母の電話からの泣き声から想像すると、変身というより憑依に近いものだったような気がする。
 母はその度に津軽ではカミサマと呼ばれる家を訪れ、いろいろな呪い札や奇妙なオブジェのようなものをもらってきては家のあちこちの柱に張ったり父親の財布の中にそっと入れておいた。カミサマとは呪い師のだが、津軽の女たちがカミサマをこよなく愛するのは悩みや労苦をカミにうちあけてさっぱりしたいという一種のレクリエーションである。私達は母のことを〈趣味のカミサマ〉と言っていたが、本当は大正生まれの母には母のさらに女の琴線に触れるような悩みがあったに違いない。このカミサマで全国的に有名なのは下北半島の恐山で毎年7月20日から開かれる大祭だが、ここに集まる老若男女の饗宴は黒魔術師さえも裸で逃げだすような想像を絶する狂乱の祭りである。もう20年以上も昔のことだ。真暗な境内に蓙筵を敷いた数10人のイタコが百匁ローソクを暗い境内の前に灯しており、山は暗く吹く風が境内のまわりをぐるりととりかこんでいる色とりどりの風車(かつて飢饉の時にたくさんの子供が間引きされた時の一種の供養塔)がカラカラと回っている。イタコのほとんどは盲目で、その盲目の老婆があの世に住んでいるという死者の霊をつぶやくように呼ぶ声は、ここが地獄の入口か。それにしてもイタコの言葉は下北地方の方言と津軽の方言が混じったもので中々聞き取りにくい。昨年友人がその人の父親が亡くなったので父の声を聴きたくて恐山に行ったというのだが、ちっとも解らなかった、とこぼしていた。その友人の父親は広島に住んでいたのだが、どうやらイタコの通訳を通すと青森の方言になるらしい。ともあれイタコの口寄せの情景はあの世とこの世の境界らしく演出されており、まるで絵に描いたような地獄の情景でもある。人々はこうした演出された風景に興奮し、劇の登場人物の一人になることで自由になる、ということをみせつけられる。
 多くの老婆老人はひとしきりイタコの口寄せに涙を流したあとに、それまでの涙が嘘のように、夜を徹して踊る歌垣のような輪に加わり酒を飲み、既に半裸で桃色や水色の襦袢をはだけながら踊り狂う。近くには屋根一枚だけの露天風呂がありそこにも処狭しと老若男女がさらした裸の嬌声でわきかえっている。自由といえばこれ程の無尽蔵な自由もない。かつて畑作農業沿海漁業はつらい労働であり、それに加えてこの地には北東風といわれる冷たい風が毎年のように春の終わりに吹きはじめる。わずかな食料と生きる希望さえ残り少ない土地では、この一年に一度の自由は死んでもよいほどの自由であったことは想像にかたくない。そうしたことを恐山は思い出させる。つまり、イタコの口寄せとは自由な時間に自由な空間に入るための通過儀礼であろうか。
 思えば、母が度々父の憑依現象によってもたらされた心の苦しみをカミサマに求めたのも同じような心理的理由であろう。母は酒も飲まず踊りもできない性質であったので恐山の祭りのような狂乱への参加はとてもできないが、それでもカミサマから帰ってきた時のさっぱりとした顔は今でもよく覚えている。若木山の赤倉さまから内真辺、浪岡、端は北の室蘭から西は埼玉県の川越のカミサマまで歩いていたという。一方は憑依し、他方は呪者に飛ぶ。いわばどうやら二人の間にはニンゲンの入る余地のない神智的空間があって目にみえぬ不思議な引力で互いに引きあっていたのかもしれぬ。と思えば、この家族はフツウをよそおったフツウでない家族とでもいえそうである。だが何度もいうようだが、青森というか津軽にあってはこうした現象は別段不思議でも何でもない。カミとニンゲンが何のためらいもなく共存し近代から現代へと受け継がれてきて生き続けている。私も一度ならず母に連れられて行ったことがある。古い農家の中には五色の祭壇が飾られその周辺は五殻で満ちあふれ、太鼓や鈴などの鳴りものが床に置かれ、あたり一面には大きな和ローソクが赤々と灯されている。儀式は木の古い桶が一つあってその桶には透明な水が満ちており中にわずかの米粒を落としてその形状、沈み具合によって呪うものであった。しんと鎮まりかえった空間に米粒のパラリと水に落ちる様子は神秘的というか何というか。
 今にして思えば彼等彼女等は津軽の見事な寓話の語り部であったと思う。その上呪いには必ずといっていいほど歌と踊りと鳴りものがつき、その形式は古くは能舞の前史である田楽や猿楽を想いだすこともできる。今でいえばツガルのローリー・アンダーソンでありシンディ・シャーマンというところかもしれない。
 カミサマとは生きている風土記である。ツガルのローリーは、かつて多くの津軽の民が冬の長い季節の中で語り継いできた“物語”を語り伝える末裔として今も生きているのである。そうした生きている風土記をこよなく愛した母も1990年1月20日午前3時亡くなった。例年にない寒波に襲われた青森は街中が凍りついていた。そして、父はまるで母の霊やツガルのローリーが乗り移ったようにそれ以後昔のことを話し始めている。
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