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寓話(3) ― オホーツクを旅する祖父

 ここに一枚の古い写真がある。すっかり茶色に変色してしまっているが映像は鮮明である。中央には大きな厚い縞模様のドテラを着た男が一人座っており、そのうしろには数百人もの黒々とした顔をした精悍というよりもむしろ野卑な男達が立っている。大きいけれどもただ太い木が組んであるだけの家でいわば倉庫といった印象である。かすかに背景に白っぽいものがみえるが肉眼でははっきりしない。ルーペをとりだしてみるとそれは干した魚が光りに反射している光景だった。真ん中に安具楽をかいて座っている男は大体年の頃50から60才位だろうか。いかにも肩幅が広く猛々しい感じが姿にあらわれている。この写真は私の祖父が大切に持っていたもので、死んだあと仏壇の引き出しに入っていたものであった。私はもうすっかり祖父のことは忘れていたが母が死んだあとふいに思い出した。写真の中央に座っているのは私の祖々父浜田屋吉兵衛である。祖父が死んだのは昭和40年の冬だったと記憶しているからそれから数えるとかれこれ25年も前ということになる。祖々父の顔は勿論一度もみたことがない。それなのに何故今頃思い出したのだろうか。何故この古い一枚の写真が気になるのだろうか。
 この問いは明らかにどこかで<私は誰か>という問いとつながっているように思う。
 私の祖々父もその前の人も漁師であったという。かつて北海道は早い春がくるとニシンがやってくる。そのニシン獲る漁師であったというのである。祖父が語ったことによれば、春のニシンというのは春の未明の朝に海が大波かとみまちがうようにして岸に寄ってくるのだ。ニシンがニシンの上に重なりさらにその上に乗りあげて海面をもちあげてゆき、そのもちあげたニシンの波が沖からまるで津波ように押し寄せてくるというのである。大きな棒をそのニシンの群れにさしても棒はゆらゆらとゆれるばかりで倒れもせず、そのまま沖から岸へ運ばれてくるというのがまことしやかに語り継がれる位のニシンの群れが北海道の南には押し寄せたのだ。
 祖々父の代から祖父の代になってからは春のニシンもこなくなったため漁師をやめて廻船問屋まがいの商売にかわった。祖父はその商売からも足をあらったあと毎日小さな囲炉のそばで、津軽の胡麻煎餅をパリパリと食べて胃をさすりながらそばに座っている私に祖々父の物語を話してくれたものである。私にはそうした祖々父が子供心にも何となく誇りであった。一匹の巨獣と化したようなニシンの群れに立ち向かってゆく祖々父の姿はよく夢にあらわれてきた。その荒々しさが自分の血につながっているという意味で密かな誇りでもあったのである。最盛期には2千人もの漁師を従えて漁をしていたという。今思えば嘘のような話もその頃は想像をかきたてるには充分なシチュエーションである。そして又、栄華とは一夜にして荒れ狂う運命の、女神から見放されどん底にたたき落とされるという栄枯盛衰の故事にならえば、祖々父も又ある朝目を覚ましたらこの日を境に一匹のニシンも獲れず丸裸になり小さな番小屋住まいをしながら毎日海をみて暮らした、という悲劇のストーリーも祖々父の生涯に色をそえるものであった。ニシンに立ち向かう祖々父の背中の夢からそのうち私は巨大なにしん御殿が一夜にして炎につつまれ崩壊する夢をみるようになった。
   ―カミ無くやカミ無くも祖々父の手にうろこ一枚残る―
という句をつくったことがある。祖父の名は喜次郎。函館生まれ。長男が遊び人であったため家をついだかたちになっていた。青年時代の祖父は青森に住むようになっていたが、それでも北海道に愛着が深かったせいか半分以上函館に住むようになり、さらに商売のため樺太(現在のサハリン)に住むようになった。すでに私の父は小学三年生位になっており父も又樺太の大泊で何年かをすごしている。話しはちょっと横にそれるが、こうした経過はほとんど父や祖父の話をもとにしているのだが、不思議なのはこうしたストーリーの中にはいつでも祖母は勿論のこと祖々母の姿がみえてこないということである。一体こうした小さな英雄伝のようなお話しの中で女達は一体どこにおりどんなことを考え何をしていたのだろうか、と思うことがある。父は9人兄弟の長男だから父が小学生の頃はまだ祖母は子供を生み続けていた筈である。まさかずーっと離れ離れになっていた筈もない。一体女達はどんな暮らし方の中でこうした男達の生き方や仕事のことをみつめていたのだろうか。
祖々父が2千人の手下を引き連れて金の煙管で煙草を喫っていた時、祖々母はどんな思いで自分の連れあいをみていたのだろうか。考えてみると私の家族の歴史の中に女達は一度も登場していないことに気がつく。

 祖父が樺太に行ったのは内地とハバロフスクとの交易のためである。主にそれは厳冬期に行われていた。祖父は樺太の大泊から単身大型の橇を数十匹のカラフト犬に引かせて氷の海を幾日も走りハバロフスクへ向かう。途中食料がなくなると引いている犬を喰い、休息地のエスキモーの部落に寄っては女達の裸の体にくるまって眠り、再び薄明の続く氷の海を渡ってゆく。エスキモーの言葉に「笑ってください」という意味の言葉がある。それは〈自分の妻か娘を抱いて冷えた体を暖めて眠ってください〉という意味だということを私は祖父からよく聞いていた。いい言葉である。平和な地域の平和な言葉である。しかし「笑ってください」という言葉は今ではよく解るが子供の時はその光景を想像し奇妙に下半身が熱く興奮したものである。やがて交易も終わり帰りの橇にはエスキモーやロシア人の仲買人から仕入れた毛皮や乾肉が積まれ再び長い氷の上の夜ごとの夜を費やして祖父は大泊に帰ってくる、というのである。大泊なのか、函館なのか、青森なのか、帰ってくる場所は本当は知らないのだが、ともあれ帰ってくる頃になると目はすっかり雪のため見えなくなりしばらく眠り続ける日が続く。二週間もするとやがてかすかに瞼の裏に光りを感じその輝きは次第に色を帯び、まぶしい光りの洪水の中に自分が横たわっていることをみつけるのだ、と祖父は語ってくれた。しばらくは肩幅の広いずっしりとした石のような印象の祖父の目をみていたこともある。目がすっかり良くなるとそれからは酒盛りの日々が始まり、近所の馬喰郎や闘犬の主催者や魚屋のオヤジや床屋の若い衆が集まり夜も昼もない宴の日々が続く。裏庭には闘犬の土佐犬が三匹つながれ、小屋には闘鶏のシャモがはねまわっている。男達の背中には赤犬の皮でできたチョッキのような防寒コートが張りつき、酒の肴にでてくる山ほどのカズノコはプンプンと大皿の中で湯気をたてている。
 こうした光景を私は今でも夢みることがある。いやつくられた〈夢〉を想像するだけのことかもしれないが、それでもなつかしさに変わりはない。吹雪の中でギシギシと音をたててゆれる橇と何もない白い空間を疾走してゆく背の大きな祖父の夢をみる。今は見はてぬ光景に違いない。しかしそれはすでに私の記憶の底にしっかりと刻みつけられたあたかも本当にあったと、本当に私が観た光景のように思えてならないのである。

 祖々父から祖父へと続くこの〈記憶〉を手掛かりに私は私のパフォーマンスの素材にしようと思ったのはこの一枚の古い写真によってである。いはばこの一枚の写真を手掛かりに私は私の家族のルーツをたどる旅にでかけることにした。私のパフォーマンスの旅の始まりである。始まりは1980年の冬も近い12月であった。青森→函館→釧路→厚岸→網走→小樽への調査にでかけたのは、年も開けた1月の下旬であり、帰ってきたのは3月もちかい小春日和ともいうべき暖かな日であった。

 大型の橇。干し魚。毛布。魚油。犬の肉。毛皮。ギシギシと鳴る音。失明。裸の女。トナカイの角。鮭の皮でできた靴。流氷の音。木でできたフォーク。
小さな蜜蜂の瓶。金のキセル。馬の鳴き声。鶏の頭。流れる血。犬を引くロープ。幻覚のように動めく幾百人もの漁師の影。魚の死。乳房に顔をうずめている祖父の顔。寒さで縮あがったペニス。エスキモーのパオ。暗い海。薄明の海。オホーツクの海を渡る魚の群れ。オホーツクの旅。
   ―神鳴くや神無くも津軽の海二月祖父の手にうろこ一枚光る―

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