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D・ゲンダーヌ

 ダーヒンニィーニェ・ゲンダーヌという名前を日本語訳すると〈北の川のほとりに住む者〉という意味である。北方少数民族の呪者の家系に生まれたゲンダーヌは父ゴルゴロがそうであったように遊牧と狩りを生命の糧とする民族の末裔である。ウィルタという名前も、トナカイを引率しトナカイの為の豊かな地を探し求めて移動する民族という意味で、呪者はいわばトナカイの道先案内人ということであろう。少数民族に限らず多くの人々がそうであったように第二次大戦がゲンダーヌを含めてダーヒンニィーニェ一族の運命を大きく変えてしまった。ウィルタ族のほとんどはその頃樺太を中心に住んでいたが一部はロシアの奥地から南は北海道まで広く移動を繰りかえしていたという。第二次大戦。そしてポツダム宣言によってロシアによる北方領土の占領が決まった時ゲンダーヌ一族は北海道にとり残されることになってしまった。彼等の故郷は樺太というよりも北方全域の国境のない国である。たまたま北海道にきていたウィルタ族を日本軍は戦争の末期になり彼等まで兵士として徴兵し聖戦の名のもとに戦場へ送りだそうとしていた。「まったく、どうかしていると思わないですか、ハマダさん。ウィルタに天皇の為とか大君に、という考えがあると思っていたのでしょうかまったく」。まるで動物でも扱うように連れてこられた彼等の何人かは死に、生き残った者は土人として登録されたまま北海道にとり残されてしまった。海峡は遠くなりかつてその海峡の氷の上を自由に渡り歩いた昔日は帰ってこない。「ここ大曲という土地はネ。昔の樺太のオタスの森によく似ているんです。川が裏にあり唐松の林があり春には苔桃の芽があちこちに出てネ。でも―似ているけどここはチチハルでもないしシベリアでもない…」。ゲンダーヌは戦後十数年してから少数民族会議に出席するようになる。アイヌの友人にすすめられたからという。〈私達は第一に日本人ではない。第二に国をもっていない。国籍をもっていない。国籍をもたないという身分を返してくれ。日本国に国籍や市民権を返上したい。ウィルタはウィルタとして認めてくれ〉煎詰めればこのような主張である。奪われた国や国籍を返してくれ人権を返してくれという主張はさまざまな戦後処理の話の中ではよくきくことがあるが、国籍を返上したいという話はこの時私にとっては初めてだった。「ウィルタの言葉には平和という言葉がないのです」「もちろんその反対語である戦争という言葉もないのですが…」。言葉なり文字に平和という言葉がない民族というのを知ったのもこれが初めてである。ちなみにウィルタというのは彼等の正式名称で別称オロチョン。アイヌ語ではオローチともいうが、ゲンダーヌによればオロチョンという名称は日本人がアイヌ人からきいた言葉の蔑称だというのである。何故蔑称なのかは今もって解らないが、その語源を辿ってゆけばウィルタとアイヌの間に過去に何があったかも推理しなければならず、多分少々やっかいなことかもしれない。あるいは日本人に対する深層的嫌悪感が単にゲンダーヌをそうした感情にかりたてているのかもしれない。ともあれそれ以後私はオロチョンという呼び名をやめてウィルタということにした。

 こうしたいろいろな話を私は突然訪れたオタスの森に似た大曲地区の〈ジャッカド・フニ〉で聞くことになった。一晩中外は吹雪が荒れる中でゲンダーヌの細い薄灰色の目と口につきあった。まわりにはウィルタの生活用具である狩りの道具や、小さな布に美しい刺繍をした貞操帯や鮭の皮でつくった長靴や祭礼用の色とりどりの衣裳が展示されている。祭壇には柳の木でできた数本のイリラウと呼ばれる日本の御幣に似たものが飾られウィルタの守り神ニポポ人形が私達をみおろしている。彼等の命の綱である木の橇は網走博物館へ寄付したのでここにはないという。明日は橇を一緒に見学にゆくことを約束して私は安酒で朦朧とした頭を抱えては時々窓の割れ目から吹く雪の音を子守歌にしながら深い眠りについた。その夜私は久しぶりに子供の頃にみた祖々父の夢をみた、いや想像したというべきかもしれない。犬橇の代わりにトナカイの橇を引いて雪原を走っている。突然氷原に様々な音がして暗い海が顔を出す。祖々父の顔は鴎にそっくりだ。赤い目と細い舌がある。橇の上には山ほどの毛皮をまとった魚が積まれている。祖々父は大股を開いて太った女の後ろからペニスを突きたてている。多くの人がそれをみながら笑っている。イド!イド!。夜半びっしょりと汗をかいてその上を冷たい空気が流れる中で私は目が覚めた。ウィルタの言葉のいくつかは津軽の方言と同じだ。ウィルタの遊牧は私の祖々父の旅に似ている。ウィルタの目は私に似ている。ウィルタの手は私の父と似ている。ウィルタの髪の毛は祖父と似ている。鮭が溯ってくる。オヒョウを撃つ。アザラシが目の前を横切ってくる。
長い旅、長い橇の旅。橇のきしむ音。犬の声がする。吹雪が幾日も続く。魚を干した油の臭い。

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