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パフォーマンス(2) ― 遺伝子・呪術的なものに出会う

 家族探しゲームの旅は終わり、私は1983年の12月に東京のスタジオ200でパフォーマンスの新しい作品を発表することになっていた。主題は《遺伝子》副題は《呪術的なものに出会う》。この作品で私は初めて意識的に“物語”性をパフォーマンスにとりこもうとしていた。それまでの作品がどちらかというと単一的なパフォーマンス・ピースによって構成され、いわば素材と身体を結びつけるメディア機能によるテキストの作成に向けられており、どちらかというと60年代のフルクサスの実験やハプニングを意識した延長上にあったものを“物語”の手法によってそうした形式を自ら壊そうと目論でいたように思う。丁度ドラマツルギーとコンセプチュアル・アートの境界に立つことによって、ないしはそれに加えてダンスや音のミニマリズムも融合することによるミクスト・メディアとしてのパフォーマンスを創ることであった。さらに重要なのはテキストに於いて日本文化のエッセンスが全体を支配する感情に支えられることでもあった。引用はウィルタ族の“物語”と家族の“物語”である。パフォーマンスに使われた素材は 1.長さ4m幅1mの5枚のドローイング 2.4台のビデオ・モニター 3.2台の8ミリプロジェクター 4.ポラロイド・カメラ 5.ピアノ 6.ドラムセット 7. 針金でできた4つのオブェ 8.直径70cm高さ80cmの瓶一台(島根産)9.電動歯ブラシの軸に羽と薔薇の花のついた2台のバイブレーション・オブジェ 10.斧 11. 油紙 12. 包帯 13.口紅 14. 小さなかがり火の装置 15. 瓶一杯の水 16. エレクトロニクス・サウンド装置一式 17. 床に図形を描くためのチョーク 18.30分の8ミリ・フィルム 19.36枚のスライド 20.タンゴのカセット・テープ 21.医療用の心臓の音テープ 22.北海道で録音した氷と風の音のテープ 23.10人の合唱隊7人編成の小オーケストラ 25.詩人1人 26.天文学者1人 27.D・ゲンダーヌ 28.ワルツの上手な女性 29.カメラマン3人 30.ビデオカメラマン2人。以上である。

 全ての用意が整ったパフォーマンスの3日前、私はゲンダーヌに電話をかけた。それまで私はゲンダーヌに私がパフォーマンス・アーティストであること、美術のいろいろな仕事をしていることなどは一切話したことはなかった。突然かかってきた電話で驚いていた様子であったが、それまでのいきさつや私がこうした仕事をしていること、さらにこの作品がゲンダーヌから大きなヒントを得たことなどを話すうちに納得したようで、明日網走を発つというのである。私にとってもどうしてもこのパフォーマンスの現場に於いては一種のオマジナイのようにゲンダーヌの存在が必要であった。どんなパフォーマンスであれ私はいつもオマジナイをする。指に5色の糸をまいたり、耳に金のイヤリングをはめたり、あらかじめ体のどこかに傷をつけておいたりする。ある時はそれが一台の砂時計だったり、会場に散くオレンジの匂いだったり、決して座ることのない古い椅子だったりする。いかにも意味ありげというよりは私のパフォーマンス空間にとってはなくてはならないマジナイ札のようなものである。今回はそれがゲンダーヌという存在であった。
次の日の夕方ゲンダーヌは大きな鮭と新しいニポポをみやげに東京に現れた。
 パフォーマンスは三日間続けられた。12月7日、8日、9日。狭い会場には中央に水が張られた大きな瓶が置かれ、それをとりかこむようにして様々な素材、出演者が配置された。8ミリフィルムは津軽と北海道の風景であり、それらが背後のドローイングの上に映しだされ、暗い会場には心臓の音が止むことなく流されているという設定。アクションは一応10のパートから成り立っており、その10のアクションは様々な人間の原初的な姿態が形をかえてあらわれる、という形式を想定した。そしてその様々な姿をポラロイドで自写し、そのフィルムを再びビデオ・カメラで撮影しモニターテレビに映してゆくという手法がとられた。そしてこの10のアクションを行う私の身体はその全ての細部に私の家族が宿っているとイメージ。引用は聖書の一節。歌はウィルタの音階の学習。会場に時々流れる音は氷音に似せたホワイト・ノイズである。山口博史の作曲したワルツの曲にあわせて都市的感情の象徴としてのワルツを桜井良子と踊る、服部達朗と村上ポンタ秀一は絶妙の即興を奏で私はその前で全裸でピアノを弾きながら…思い出す。アイ・リメンバー…。
remember my father my mother,remember my grand father …
  私の目は父のもの
  私の口は母のもの
  私の耳は祖父のもの
  私の鼻は祖母のもの
  私の手は祖々父
  私の胸は祖々母のもの
  私の背は祖々々父のもの
  私の腹は祖々々母のもの
  私の足は祖々々々父のもの
  私のペニスは祖々々々母のもの

 私とゲンダーヌは毎日一緒にスタジオに入りリハーサルを繰り返し、本番を終わったあとも二人で帰ってきた。最後の夜、大勢の仲間やスタッフと池袋で打ち上げをし、すっかり酔った二人はタクシーに乗り込んだ。終演の疲れと酒の酔いでぐったりしている私に向かって突然ゲンダーヌは濁った目で私をみながら「ハマダさん!北海道にこないか」というのである。厚いざらざらした手で私の手を握っている。「ハマダさん!ウィルタに来ないか」。タクシーの外は光りの洪水、人々のざわめきである。光りの洪水と人々のざわめきはやがて吹雪と氷の音に重なりあう。
「ハマダさんをウィルタに下さい」と私の家族のものにまで何度も言い残して次の日の朝早くゲンダーヌは網走へ帰って行った。「ハマダさんをウィルタ族に下さい」。耳の底には今でもゲンダーヌの酒でくぐもった声が残っている。何故だろう。ゲンダーヌは私のパフォーマンスにつきあった三日間何を考えていたのだろうか。

 2年後のある朝、一通の手紙が届いた。差出人は北川順子。ゲンダーヌの奥さんで佐渡ヶ島出身。少数民族の研究で網走にきてゲンダーヌと知りあいその後結婚。地元で小学校の教師をしながらゲンダーヌをはげまし続けた人である。ゲンダーヌを北の川に棲むイトウに例えるなら彼女はまるで暖流に棲むオショロコマのような人である。

 ―浜田さんと会って源太郎は久しぶりに生き生きとして東京から帰って
 きました。それ以来毎日毎日その話ばかりです。昨年送ったオホーツク
 の鮭はいかがでしたでしょうか。さて哀しい知らせですが源太郎が昨日
 亡くなりました。生前の御厚情誠にありがとうございました。又いつか
 暇をみつけて網走へおいで下さい。―

 春のなかば。桜の花が散りはじめている頃の哀しい知らせ。みるともなくその桜の花の散るさまが雪に変わりあたり一面はオホーツクの白い平野となる。ウィルタの最後の呪者が死んだという知らせ。今でもオタスの杜に似ているという網走郊外の大曲地区にある〈ジャッカド・フニ〉は残っている。網走を訪れた人ならば知っているかもしれない。古い市営住宅のあいだをぬうように歩いてゆくと丸太で組んだ小屋があり、そのうしろがそうである。しかし主人のいない〈ジャッカド・フニ〉は私にとっては単に北方民族資料館というにすぎない。そこには数々のウィルタの記憶がしみついているものばかりなのだが、きっと呪者を失った今となっては再び歌い踊りだすこともないだろう、という気がする。
 それから3年の歳月がすぎて私は再び似たコースを辿りながら厳冬の網走を訪れた。網走から車で約30分。小さな村落があり、そこから歩いて20分位のところに小高い丘がある。その丘の中腹にゲンダーヌの墓はある。胸まで埋もる深い雪をこいで辿りつくとゲンダーヌの墓はアイヌ人の男の墓がそうであるように一本の棒となって雪の中に埋もれて立っていた。

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