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寓話(5) ― 砂漠で橇を引いた話

漂泊のイメージ

 人を定住型か移動型かに分類すると、私はあきらかに移動型に属する。あるいは農夫型と漁師型のどちらかを選択せよといわれれば躊躇なく漁師型と答える。人は類型化されたいという生物学的な集合の心理から考えてみると本来は定住農夫型に属する筈である。にもかかわらず移動漁師型のイメージがその対極にあるのは人間は本来自由な存在ではないか、という文明的問いである、そもそも移動漁師型つまり漂泊のイメージは最初からあったわけではないことは確かである。
 特に現在の日本のような情報生産型の工業社会にあってはこうした分類に自分をあてはめて考えることは極めて困難なようにみえる。隅々まで行きわたった情報化社会では、情報それ自体大きな屋根をもった一つの家の中に住んでいるようなものに例えられよう。こうした情報化の中では都市漂民という存在も否定できないわけではないが、これも考えようによっては都市家族の漂流の一員といえば一員である。つまり移動漁師型であり漂泊のイメージというのは今日にあっては定住に対する対称として存在しているというよりは、定住化内に於ける一種の異化概念に等しいのではないか、と思われる。かつて西洋は広場の思想で日本は道の思想だと書いたのは確か建築家の黒川紀章の初期の論文の一節だと記憶しているが、別の見方をすれば広場とは中心をもった機能、つまり管理社会を想像させ、それに対して日本の城下町にみられるような道の構造はラセン的なエントロピー構造によって中心を失ったイメージつまり漂泊をイメージさせる。このような考えは初歩のアーバン・デザインの学習の範囲なのだが、それでも奇妙に人を納得させる分類のようにみえる。だから、というわけではないが道に伴う言葉の概念には漂泊とか流浪という無常感がつきまとい、わりと日本人好みの思想である。都市を構造的な集約されたメカニズムとしてとらえるというよりはある種のカオス性としてとらえる考えがこの国に古くからあるのも多分この道の思想と無縁ではないだろう。積極的に分析しようとすれば都市はすでに都市形態の初期より今日まで常に都市のメカニズムそのものによって自ら都市たらんとされてきたのであるが、その合理性に対して擬人化し人の感情に似たものとしてとらえる文化的のために由来に反対に都市文化論は多様な表情ゆえに、逆に人間の感情の爆発の実験地としてとらえられてきた向きもある。漂泊のイメージもそこから生まれる。換言すれば都市の多様性と複雑なメカニズムをモデルとした人間社会が都市だとすれば、漂泊のイメージは人の手に負えないモンスターのような都市から逃避する人間らしさの擬人的評価に他ならない。
そしてその逃避性が生む心理の都市的イコノグラフィーが漂泊をより一層人間的なものにみせかけているのであろう。その意味で都市とは実に宗教的でさえある。
 つまり移動漁師型というのは文明の歴史の過程に於いて発生した文明への異義申し立て者であり少数の異端であることは容易に想像がつく。漂泊であり異端に人が憧れるのは、パラドクス的に言えば、人は皆異端の種子をもっているのではないか、という幻想のせいである。勿論その欲望の背後には〈私〉はあなたと違った存在であり、ありたいという差異のまなざしがあるのはいうまでもない。それゆえに本物の異端は常に人々の憧れの対象となる。さらに異端をシンボル化することによって人は定住のもつ管理的メカニズムや日常のマンネリズムから逃避したいと願うようになるのであろう。だが皮肉なことに〈人といつも違っていたい〉という欲望の人々が集まる街が、多様性をもったメカニズムによって構成されている同義性が都市といえば都市なのである。パラダイムの転換をもたらした都市は、極めて逆説的に無数の漂民と異端者によってつくられている、ともいえる。


砂漠で橇を引きたいと考えていた

 異端といえば、パフォーマンスで旅をしていると私の場合いつもその風景の先端に砂漠があらわれる。つまり砂漠が異端として現れる。砂漠という言葉にはどこか幻想的で遠い祖先の地のような響きがある。特に私達日本人の生活空間のような密度の濃いというか、あまりに人の手が入った箱庭的空間の中で生活している者にとっては、砂漠のイメージは独特の想像力が働く記号である。解放されたいとか、非日常的空間を覗いてみたいという抑圧された心理に対する逆感情である。京都の庭園を訪れる度に思うことだが竜安寺や大仙院の枯山水ばかりでなく他の回廊式の自然庭園も含めていかに空間に対する密度の濃い欲求が強いかということをいつも感じる。配置や素材に対するある種の完璧さは見事という他はないのだが私にはそれが完璧であればあるほど強い抑圧の形式にみえる。うがった見方をすれば京都の町体が中国の模倣的ミニアチュールであるとすれば、そこには見えない広大さへの憧れが京都的縮みの美意識を生んだと解釈できないことはないのではないか、と想像できよう。ともあれ現代韓国の最も優れた知識人の一人、季御寧の名著『縮みの思考』ではないが、京の文化には渡来文明以来のコンプレックスががあり、やがてそのコンプレックスが姿を変えて細部に美意識が宿るようになったという考え方は遠からずとも当たっていよう。
 ともあれ私にとって砂漠という記号は欲望の記号としても〈私〉の感情に特別の意味をもっているのではないかといつも思う。子供の頃に読んだスタンレーやアーネスト・リビングストーンの伝記の背景となったアフリカの砂漠や、タクラマカン砂漠を横断したスウィン・ヘデンなどの探検記は単に人の気持ちをそそる以上のものがあった。又、砂漠とは違うがスコットとアムゼンの南極点争奪物語に描かれた白い大陸の風景描写は子供心にも随分興奮したものである。戦後まもない頃の青森は空襲のせいもあって貧しく、私の家もそれこそ赤貧を洗うがごとくであったが、そうしたいつも暗い電灯の狭い小さな部屋の中で私はいつも広大な大陸の物語を読みふけっていたために自由とはなんとなくいつも広さにつらなるイメージであった。今にして思えば少々安易な図式の中で想像の砂漠は勝手に膨らんでいた。しかしその後青年期に一時影響を受けたポール・ニザンの「アデン・アラビア」やレヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」にしても、思想や民族学的研究の内容はともかく、その背景となった一種の茫漠たる中近東の熱気や混沌とした熱帯の風景に共通する無尽蔵の自然と人間の関係が深層心理的興味の中心といえばそうである。それにA・ランボーとかカミュの「異邦人」などの著作を加えれば立派に子供時代から青年期までほとんど精神の高揚さとは程遠い空想のノスタルジーを歩んできたことになる。要するに私は凡庸な子供や青年が通る道をそのまま歩いてきたのである。
 だが、こうして普通の時代に読んだ様々な書物を今新めて再読してみると、砂漠という単に心理的な自由さへの記号にすぎなかった存在が、各々背後には近代の復興を政治的にも文化的にも未開の知−地−血の援用によってなしとげようとする地政学上の意図がかくされていることが解ってくる。特にヨーロッパの知を知のマジョリティと仮定するならば、そのマジョリティの再生の為に常に未開の知は血を流し続けてきた歴史であったことも解ってくる。
マイノリティの発見によってマジョリティは復活するという思想が近代の地政学的常識であるのは今さらゆうまでもない。そしてこの図式は基本的に今も変わっていない。いやむしろ拡大の方向にあるといっていいように思う。つまり、砂漠は自由という名のもとに取り引きされる死の商人達の舞台なのだ、というのはいいすぎだろうか。しかし相変わらずこの砂漠に行きたいという想いを私は長い間あたためていた。子供のように…。そして今も…。
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