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砂漠で橇を引きたいと思った…

 …のは今は亡きウィルタ族の呪者D・ゲンダーヌが使っていた大きな橇をみた時からである。シベリアから樺太の地を苔桃を探して歩いていた頃のウィルタの記憶が橇にかたちとなって宿っており国家や国籍のない生活の象徴がそこには在った。又橇は最も原始的な運搬手段の道具の一つでもあるにもかかわらず、その形態のメカニズムは流線形に対する進化の美しさを保っていることも私が魅かれた点である。その橇を使って砂漠を歩きたいというイメージは北方の象徴が南の砂漠でどのように変容するかという好奇心と共に、固有の文化を他の文化圏に移しかえた時の知的混乱を体験してみたいというものであった。勿論こうした思いは後の隠喩にすぎない。パフォーマンスに於ける最初の選択の90%は直観であり、それを支える10%の演出によって作品は完成するのであるが、それがやや大袈裟な解釈だとしても、もののもつ力を歴史にまつわる意味と記号によって隠された形式を一瞬のうちに解読する作業によってパフォーマンスははじめて形式の第一歩を踏みだすというのはあながち大袈裟でもないと思う。それは漁師がまだみぬ魚の群れを深い海の色と風と潮の流れによってかぎわけるようなものである。私が橇を最初にみた時に感じたのもそんな印象に近いものだった。

 〈砂漠で橇を引きたい〉というイメージは、それが実際に砂漠に出かけてゆき橇をもちこんで遊牧の民の真似ごとをするために作られてきたのはいうまでもない。それはイメージの喚起力のようなもので私にとってはイメージの記号つまりその記号を使うことによって様々な現象や自己分析をうながす手段の一つである。そこから生まれる無数の言葉の連想。例えば定住と移動という概念もその一つであるし、漂泊の概念や探検についてのアプローチも〈砂漠で橇を引きたい〉という記号によって考えられてきた。
 〈砂漠で橇を引きたい〉という概念は言い換えれば〈砂漠〉というメディアと〈橇〉というメディアに加え私自身の〈身体〉というメディアが各々の関係に於いてどのような反応を引き起こすかといういわば個人的メディア論として私自身に喚起した問題であった。
 評論家の粉川哲夫ではないが、私達の身体はメディア的身体によってアウフヘーベンされている、という実感がある。私というセンサー受信機の先に結ばれている無数のものや記号や言葉の現象が発信している状況である。粉川哲夫流に云えばそれはコンピュータ的身体感覚とかエレクトロニクス的身体ないしはセンサー型身体構造と云ってもよいが、ともあれ私達にの〈身体〉はそれ自体メディア的であるという認識は現代の一つの優れた定義である。
ジャック・デリダはかつて〈器官なき身体〉論の中で、身の構造をメディア的なものと生命的なものとの中間に置きながら、存在そのものを情報の送り手と受け手の筒の役目をとして登場させているが、さらにいえば中間機=触媒としての身体は機能としてのメディアと生命としてのメディアの他に自己増殖を目的とするクローン的メディアをつけ加えることによってより各々の関係を明らかにするのではないかという問いに結びつけることも可能である。
今日のメディア的身体というのはその限りに於いて過去10年に比べはるかに進化したものとなっている。しかしこのような代替的身体論にあっても実際に身体のもつ行動様式が単に一般的なメディアのシュミレートされた状況の反映である、とは考えにくいことも確かである。初期のインベーダーが登場するテレビゲーム機が現在ではほぼ同じシステムの中に株式情報や映画・演劇などの案内などのパーソナルアイテムが入りこんできており、さらには同機を電話回線につなぐと一瞬のうちに世界中のコンピュータにつながる端末機の役目に変化する例をひくまでもなく、シュミレーターはそれは身の進化と共に身体とも器官的に進化をうながしてきた、とみる方が理解しやすいだろう。又一方ではハイ・ビジョンといわれる高品位テレビの時代がきて、やがて人は居ながらにして本物に近い世界各地の風景や絵画などが壁かけテレビを通してみられるという宣伝が行われているが、基本的にはハイ・ビジョンといえどもそれ自体の器官的進化を含むという考え方に立てば、いはば代替的身体の延長とみなすことも可能である。そしてこのような状況は今では特殊でも何でもなくなってきている。比喩や隠喩なしにストレートに私達は〈メディア〉そのものとして生きているということかもしれない。脳の回路か、もしくはそれ以上の早さで一秒間に無限に近い+と−の加算減算のスピードに私達は自らの運命をたくしている、といってよい。G・H・ウィルズの「一九八四」はすでに達成されている。あるいは又スタニスフラム・レムは―地球外の星に棲む小さな虫(インセクト)が様々な擬態となって空を飛んだり、都市を創ったり、人間のようなかたちになる―コンピュータ・チップ(インセクト)の未来を描いたSF小説を発表したことがあるが、今まさに私達の周辺はレムの小説から悔恨と皮肉と人間らしいエロチシズムの視点を除いた場面と重なりあっている。まさに皮肉にも、現在のコンピュータの世界で“虫”といえばコンピュータ・プログラムを破壊す信号の名前なのだが、まさかレムもそこまでは予感していなかったのでは。と、奇妙な負の記号の一致に驚く。しかし、なにより、私達自身がこうした器官なき身体の現場に本当に立っていることにもっと驚くのである。

 さて、今日では〈身体〉はメディアであるというのはごく一般的な考えといえるが、発信や受信するメディア体と同時に触媒という考えも広く語られている。それは単に情報の集積と回路の選択によるメディアの統合部分というばかりではなく、古典的メディア論(?)に従えば〈生命の伝達体=遺伝子の保留〉にその形式をみることもできる。非常に極端な言い方をすると遺伝子なりアミノ酸の純粋な継承体としての身体があればニンゲン類によらず生物の生命伝達は充分に可能ということになる。さらに微分的に云えば卵子と精子さえあれば人類の純粋な発展継承は保障されているという現象に尽きる。この場合、純粋なメディアに相当するのは卵子と精子である。卵子と精子の生物学的意志や認識が未来を決定するのではなく、その存在そのものがメディアの種子として保留されている状態が未来の選択にとって重要なである、という認識である。つまり継承を望むのはニンゲンの意志や認識でなくともよい。解りやすくいうと愛や情や知によって継承する生命の他に純粋理論的に生物を継承する手だてが存在することの自明さである。これは一つの仮説であるにすぎないが、身体のメディア化という状況に於いては次のようなテーゼを提示するだろう。つまり生命継承体として《私は誰か》という問いと、認識論的な意味での《私は誰か》という二つの問いを統合する存在とは何か、というテーゼである。前者は純粋に理論的にも可能であり現在さまざま角度から研究されているバイオテクノロジーなどの技術にその要因をみることは容易である。方法や技術がもしも一般大衆の政治や文化の幻想と共に決定された場合手段はすでに内在しているとみてよいだろう。いはばクローンの思想や種の進化の思想が人々にとって社会的に必要であれば明日からでも始まることは過去の例をみるまでなく顕在化する。生命継承としての《私は誰か》という問いは優性遺伝を科学的メディアの先端に位置づける存在を想い出させる。いはばカミの視座から逃れた今日の科学信仰への時代であるパトスへの疑問、ロゴスへの信頼の代弁者として私の存在である。それに対して後者の《私は誰か》という問いはきわめてやっかいである。基本的にはパトスに由来する人間の数の分だけの相対的な個人的な異義申し立てであり、認識論的自己言及の物語によっているように思われるからである。ここには科学的視座にみられるような共通の形式なり設問のたてかたがない。大雑把に分類しても、宗教、政治、国家、人種、環境、職業、性別などに対応しなければならないことになる。換言すると、人はあらゆる意識のレベルによって与えられ獲得した情報や知識を各々の個性的に入り組んだ条件の組あわせの中から分析し整理することによって認識的でありたいと欲求する動物であり、その結果得られた行動様式によって経験を普遍的なものに重あわせたいという同化性をもつ存在ということになるだろうか。つまり、存在証明書なしに生きられない動物であり、その存在証明書を誰かが保障することを欲する存在という意味である。
 《私は誰か》という問いは近代の病である、とよく言われる。そしてその病が今日の様々な文化や文明の構造に深く関与していることも確かである。比喩的に言えばその病の治療法としての現代が今私達が住むこの世界であるともいえる。かつて《私は誰か》という問いはカミやその代弁者としての王権との関係ではあったが、今日ではカミや王権の代わりにエクトロニクスやコンピュータがその関係を暗示していることも確かである。いはば情報とニンゲンの関係を新たに構築しなければならない時代といえるだろう。

 コンピュータは美しい、といったのは確かマーシャル・マクルーハンであったと思うが、今から考えると60年代は1920年代に多くの芸術家がポルシェやフォードのメカニズムや機械の美しさに魅せられたのと同じく、コンピュータに対するロマンチックな響きがある。かつてコンピュータは巨大な部屋に位置する無数の真空管の放つ青白い電光ロボットのようなものだった。『2001年宇宙の旅』の映画をみるまでもなくコンピュータは機械のもつノスタルジックなまでの美しさにあふれたものであったのはいうまでもない。だが今ではそのロボットもたった一枚の1センチにも満たないチップとなっている。もしもあなたが過去のコンピュータを今でもみたいと思うならフランスの彫刻家タキスの作品にその面影をみいだすかもしれない。ともあれコンピュータはそれこそスタニスラム・レムの描く“虫”のようなものになってしまった、といえる。美しさを感じようにも感じられなくなってしまった。
 話は少し変わるが、近年さまざまな分野で一種のアナール派的活動が盛んである。一口に言うといままで学際的にいえばほんのとるに足りぬ出来事や奇妙なもの異端のものに対する調査研究というべき活動である。微分的手法によって周辺に視点をずらしたり、パラダイムの変換によってそれまでの歴史を再構築する試みである。こうした微分的手法はそれでも一部のマニアックな研究者や作家によって駆使されてきたのだが、今ではすっかり一般的に定着している。こうした考え方は民衆の意向や好みに合うものとして発表されてきたともいえるが、他方では情報化時代の産物とみなすこともできるかもしれない。多量の情報管理システムがそれまでバラバラに散逸していた情報を高度な集積性によって飛躍的に高めていった結果、簡単に言えば意味と意味をつなぐ検索が容易になり、それまで単一の項目でっあったものが様々の文化レベルに於いて自由に組あわせを可能にした、といえよう。その上に立って民衆のさまざまな歴史の姿が従来では考えられないほど鮮明になってきたことが、いわばアナール派のような研究を一般的にしてきたのではないかと思うことがある。その民衆の感情や人間の異端性などにまで踏み込んだ研究がある意味では高度集積回路であるコンピュータによって発展したのではないかと想像するのは愉快である。
 さてアナール派のことはともかくとして情報は人間を解放すると信じられてきた。では、情報をもてばもつほど人間は本当に自由になるのだろうか、という問いが〈身体〉のメディア化論にいつもつきまとっている。というよりは、メディアそのものが多分に進化の途中にあると仮定すると、そうした疑問はいつも同義的に起こるのである。私自身に即していえばパフォーマンスに於ける〈身体〉と日常的生活者としての〈身体〉必ずしも同義語ではないのである。それは二重の虚構性によってからめとられているという思いがある。なぜならば、パフォーマンスという表現に於ける身体はまさに肉体そのものを意味しながら同時に表現という性質上どうしても一般的なメディア的身体性という記号性を援用しないわけにはゆかないというアンビヴァレンツが存在するからといってよいと思う。つまり個と普遍のメディア性の相違性である。日常を演技性にもちこむか、演技性を日常にもちこむか、そのどちらかを結局は使用するにもかかわらず、この二つの相違点はパフォーマンスに於いて同時に成立する可能性を示唆する時に顕在化する。〈身体〉を肉体化する方法と〈肉体〉をメディア化する現象がパフォーマンスの〈身体〉性に深く関わっているとすればパフォーマンスはこの場合〈メディア的身体〉ではなく〈メディア的肉体〉と呼ぶ方がより感覚的には近いといわざるを得ないのである。まり、情報は必ずしも個の自由と結びついているのではなく、むしろ情報を操作する〈私〉の側に自由の概念が存在するか否かどうかを問いかけている操作性が、たまたま自由を選択しているという状況を生みだしているにすぎないという自覚がややあらわれているにすぎないのである。
換言すれば、〈自由〉はメディア的状況に於ける身体性の発展というよりは、むしろ固有の肉体がメディア的身体に犯されるようにアンビヴァレンツとなった状況下で、相対的に起こりうる現象といってもよいように思う。そしてそれは個人的には強くパフォーマンスという記号的現場に於いてひきおこされる肉体の事件となって起こるかのようである。ところで…。ここで一つの具体的なパフォーマンスについて考えてみる。云うまでもなく「橇を引く」話である。

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