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パフォーマンス(3) ― オーストラリアの砂漠で本当に橇を引く
〈橇と橋〉

 オーストラリアに行くのにどんなコースで行ったらよいかと尋ねられたら私は躊躇なくシンガポール航空に乗って、成田→シンガポール→パースというコースを薦めたい。何故ならこのコースはまっすぐオーストラリア・デザートの上を飛ぶからである。月に何度も往復するようなハイクラスのビジネスマンならいざしらず、たまの旅行で眼下の風景をみない手はないだろう。特に砂漠とか密林とか大山岳地帯とかがその国にあるとすれば飛行機が最もその美しい風景を提供する。
 オーストラリアは日本の約23倍。そのほとんどが赤い砂漠とユーカリのブッシュにおおわれた未使用の大陸である。それはまるで太古の昔に一つの大きな隕石がこの地に衝突して何もかも焼きはらい、出エジプトをしたモーゼの前に広がった荒涼たる神の試練の国を思い出させよう。延々と続き傷口が盛り上がったような赤い山脈の筋や、無数の斑点状の窪みや薄灰緑の影のようにみえるブッシュ帯がただ赤い色彩の中にくり返し点在し続く風景は、四万年に続く巨大な絵画である。

 オーストラリアと私の関係は今年で丁度10年目になる。1981年の訪問でそれからはほとんど毎年でかけている。アート・ギャラリーでパフォーマンスを行ったり展覧会を開いたり美術大学でワークショップを行ったり様々である。近年は訪れる度に興味を倍加するアボリジニ・アートの研究とか調査も行うようになったため、これまで以上に随分縁が深くなったものだと思うことがある。
 1981年というとたった今から10年前のことである。その10年前まで私は全くといっていい程この国のことを知らなかった。オーストラリアへ行くと決まったある日友人達と集まってオーストラリアのイメージというかいろいろなことを話しあったことがある。今では信じられないことだが、その当時私も含めて私の友人達全員がオーストラリアについて全く何も知らなかったのは事実である。動物にしてもコアラとペンギンとカンガルーより知らない。そのコアラやペンギンやカンガルーにしても、たまたまテストと称して全員にその姿を描いてもらったのだが本当に誰一人としてなく正確な姿を描けるものはいなかったのである。足の長いペンギンとか猿の顔をしたコアラとか兎の耳をしたようなカンガルーとか、ともかく実在の動物なのに絵は全て空想の動物であった。ましてやその時のオーストラリア行きの目的がメルボルンで開かれる日本の現代美術展〈余韻〉に参加するというのに受け入れ先であるオーストラリアの現代美術の状況は本当に信じられないことだが全員皆無、無知であった。その片鱗さえも知らなかった。この時感じたのは大袈裟に言うと情報のない国は存在しないに等しいという実感である。1981年のオーストラリアというのは私にとってそうした情報未開の地であった。そして、その最初のオーストラリアとの出会いはシンガポールを明け方出発して夜の明けた朝の光りの中でみた赤い砂漠つまりオーストラリア・デザートであった。

 スウィン・ヘデンが西域探検にでかけた動機をきかれたとき〈タクラマカン砂漠で昼寝をしてみたい〉と答えたというエピソードがあるが、それにならえば〈私はいつかこの赤い砂漠を舞台にパフォーマンスを行ってみたい〉という気持ちをその時のシンガポール航空の中で感じていた。それは砂漠というロマンチックなイメージもあるが、それよりも赤にせよ黒にせよあるいは白でもよいが一種のモノクローム性の世界が人の心を魅了する力の源泉としてそこに感じたせいである。それは絵を描くとき白いキャンバスなり紙を前にして一瞬ためらいながらも最初の一筆を入れたいと思うアンビヴァレンツな気持ちと同様の怖れと感動が相交わる欲望と似ていた。敬虔と残酷さが同時に訪れる感情で私は目が痛くなる程赤い砂漠をみつめていた。


1981年6月のパフォーマンス
〈柔らかい言葉―鮫〉メルボルン

 この作品は1981年にメルボルン市で開かれた日本の現代美術展〈余韻〉のために行われた。展覧会は基本的に彫刻と絵画で構成されていが、この展覧会を特徴づけているのはサブ・タイトルに〈idea from Japan 〉という名前がついているのをみてもわかるように、日本の作家のアイデア(図形、スケッチ、説明書、考え方、ディティールの組み立て方、色彩など)を送ってもらい、メルボルンの美術大学の教師と学生が再現するというものであった。これは純粋に作家の作品が展示されるわけでなく、いはば設計図の再現による日本人作家の作品である。プロデューサーのケン・スカーレットによれば「日本の文化をオーストラリア人が実際の制作過程を通じて学ぶこと」である。日本の作家の選定にあたったのはチコヴァ・ブラスタ、山岸信郎、ステラークの3名であったと記憶している。パフォーマンス・アーティストは私一人であった。パフォーマンスも勿論ある種の形式では再現が充分に可能である。むしろ彫刻や絵画が基本的に他人の手によって再現が難しいものに比べてはるかに再現を可能にする表現手段である。にもかかわらず他の全ての作品はメルボルンの学生や教師や何人かのアーティスト達の共同作業によって再現されたが、私だけは実際のパフォーマンスを行うことになった。一つには私の計画があまりにも複雑な形式というか手続きを必要とするものであり単純に再現できない性質のものだったせいもあるが、私自身にとってはその手続き(ワークショップ)も含めた全ての時間の流れがパフォーマンスにとって重要だと考えていたことが再現を難しいものにしていたように思う。この時アイディアを提出した作家は以下のとおりである。榎倉康二・福原金太郎・原口典之・長谷川俊文・池田徹・石井勢津子・加茂博・鹿沼良輔・川俣正・久野利博・倉重光則・前田一澄・村松正之・中山正樹・沖啓介・大阪日出男・桜井智章・菅木志雄・高木修・高山登・宇旦・田中睦男・砥上賢治・和田守弘・わかなみえ・八木正文 その他私と同行し、展覧会プログラムの他にメルボルンのいろいろな場所でパフォーマンスというか音楽の演奏をしたのは、服部達朗、松本清志、峰岸政春、山口博史、島田漓里、古舘徹郎、村田真である。

 〈柔らかい言葉―鮫〉のパフォーマンスはいくつかのWORKが次々と連続して展開されてゆく形式のものである。 1.オーストラリアの漁船をチャーターしてなるべく大きな鮫をつかまえてくる。 2.その捕獲の時のドキュメンタリービデオフィルムを作る。 3.海岸にゆき、その海の生態を観察し記録する。岩石の種類、植物の分布、沿岸の小動物の動態、水質、地形の形状などをフィルムにおさめ、スケッチをする。 4.捕らえた鮫は3本の柱に吊るして自然に腐るまでおく。その状態をビデオか35ミリフィルムに記録する。5.野外でそれまでの記録や調査、パフォーマンスを主題に三日間レクチャー&ワークショップを開く。6.全ての記録を展示する。といった形式であった。
この中でパフォーマンスとして多勢の観客の前で演じるのは4.の部分ということになる。以上が私がオーストラリア側に示したコンセプトであった。鮫を使いたいという理由は、できるだけ大きな動物の死体が欲しかったというオブジェ的感覚にもよるが、挑発的な意味でオーストラリアの特性を再構成してみたいという気持からであり、もう一つはその頃調べていた私のルーツ探しのストーリーに登場するアイヌのユーカラの一節から引用が重なりあった結果である。つまり〈鮫〉という存在の象徴性をはさんで日本(アイヌ)とオーストラリア(アボリジニ)の文化の交換性の仕掛けが周辺考えられていた。こうした連続性にこだわったのはパフォーマンスという一回性の表現をできるだけ解析的であり、日常の表現行為の連続でありたいという目的と手段のため様々の表現のスタイルを連動させることが、このパフォーマンスの隠愉性や象徴性を解く鍵になる筈であった。時に私にとってパフォーマンスが日常と表現のプロセスの中に混入するのは多分にこうした理由によってである。巧妙な罠を分析して公開してゆくこと。パフォーマンスはその結果として現れる。勿論罠が適切かつ有効であればパフォーマンスは思いがけない程偶発的にも示唆的にも優れた地平へ私自身を導いていってくれるし、又他者へ向かう芸術の記号はメッセージとしては効果を数倍のものにする。換言すれば、飛躍的であればある程、プロセスが長ければ長い程、他者の想像力が関与する時間と空間の隅間が広がってパフォーマンス現象を獲得できるのである。心理的に言えばその隅間の大きさを埋めてゆく理解=共感が周辺に仕掛けられた罠のもつ役目ということになる。不安、理解不能、拒絶を罠という文化的理解が解消してくれる。ここでつけられた〈柔らかい言葉―鮫〉というこのタイトルは〈柔らかい言葉〉がその罠(=文化)の部分であり〈鮫〉がパフォーマンスのもつ飛躍性を象徴している。
実際のプロセスは以下の通りである。まずプロデュース・スタッフ巨大な鮫を求めて調査した結果、冬のオーストラリアで鮫を捕獲できるのはクィーンズ・ランド州のグレート・バリア・リーフの沖であることが判明。すぐさま現地の漁業組合に連絡してブルー・マリーン用の船をチャーターしてもらった。ブルー・マリーン用の船というのはゲーム・フィッシングで巨大なバショウカジキなどを釣る船のことである。鮫を釣るためには豚の臓物や血を海に流して鮫をおびきよせて釣るというのがオーストラリア・スタイルである。結局連れたのは5m位の巨大なタイガーシャークであった。人間の頭なら2〜3個はすっぽりと入りそうな巨大な歯をもったものである。そのタイガーシャークに港で口から大量の氷を入れて氷づめにし、特別性の木の箱(まるで棺桶のようだったが)に鮫を布でくるんで入れ、しっかりと釘を打ち港から飛行機に運び小型チャーター機でクィーンズランドからメルボルンまで運んできた。その時私は海から上がってきた巨大な生物が棺桶に入って孤独にオーストラリアの赤い砂漠の上を飛んでゆく姿を想像した。銀の翼の中に眠る死が赤い砂漠に影を落としている。鮫はメルボルン空港から国立ビクトリア美術館に運びこまれ、十数人の学生の手によって美術館の中庭に吊るされることになった。エピソードの1.。この鮫を使うというパフォーマンスがメルボルンの新聞でパフォーマンスの前日に報道されたためか、鮫を吊るしている最中にたくさんの人が見学にきていた。するとその中の一人が突如巨大な斧をふりあげて鮫と鮫の周辺にいた私達に襲いかかってきたのには驚いてしまった。ハンギングのためのトライポット(三脚)や麦ワラの大きな束でできた壁のような私のインスタレーションはその男によってアッというまにずたずたに壊されてしまい、さらに男は鮫に斧をふるって切りかかろうとしたのである。すぐさま大勢の学生や運搬協力者が鮫の前でバリケードをつくったため鮫は傷つかずにすんだが、しばらくの間、男の激しい息づかいと斧をもって歩きまわる恐怖が庭にたちこめていた。結局、美術館の通報で警官がきて男を連れ去ったが、あとでわかったことは男は〈鮫環境保護委員会〉のメンバーの一人ということであった。オーストラリアには本当にいろいろな環境保護グループがいるものだ。数日後友人の一人が「この次はイルカかクジラのパフォーマンスを行ったらどんなものかね。きっとたくさんの人が見にくるヨ!」とコーヒー・ブレイクの時雑談しながら冗談で言っていたが、その時は「まさか!」と思っていたが本当は、あながち私にとっても興味のないことでもないのである。素材を再生する方法は様々にあるものだという理由でイルカのパフォーマンスは今も心をかすめている。いやゲイジュツとは何と反社会的行為なのだろうか、という自問自答と共に、ということをつけ加えておかねばならないかもしれない。

さてその後パフォーマンスは吊るされた鮫を白い大きな布でしっかりと包み、その布の上から鮫の原をまっすぐに切り裂いて全ての内蔵をとりだして、その腹の中にクィーンズ・ランドの海の光景が映っているビデオ・モニターを入れて再び腹を閉じるように縫ってゆくことになった。その間私はかすかな声でアイヌのユーカラを歌い、鮫の血で地面に絵のような記号を描き続けた。時々目をつぶると数百人の観客のいろいろな声がきこえてくる。そして腹の中に縫いこめられた海のビデオが縫った腹の裂け目からかすかにブルーの色と海の音が流れているのがみえている。海に棲む生物が今は海を飲みこんでいるというパフォーマンス。しかし、そして突然、内蔵の中にある水分にモニターがショートしてシューッという煙と共に映像が消えてしまうというハプニングが起こった。腹の中から機械の臭いとモニターが死んだ白い煙がもれてきた。全く偶然、鮫の二度目の死というか鮫の中で文明が死ぬシーンが回想されたのである。ショートしてモニターが壊れることはあらかじめ判っていたわけではない。が、結果的にはパフォーマンスはハプニングによって、一種の完成をみたのである。のちに多くの観客は白い煙が機械の死と鮫の生命の再生をイメージして美しかった、といっていたが皮肉にも私はパフォーマンスを意図していたにもかかわらず、1960年代のハプニングに立ちあってしまったのだという、じくじくしたる思いにとらわれていたことも確かであった。

エピソード2.。パフォーマンスの次の日の朝早く電話がかかってきた。美術館の守衛からである。「今オカシナ男がきてあなたの鮫に何かイタズラをしているらしいので早く来てくれ」と早口の英語でどなっている。現場に急いでゆくと私の鮫はきれいに歯の部分が切りとられてあわれな年老いた老婆のような口になっていた。守衛、「これは多分イタリア人の仕業だろう。イタリア人はオミヤゲ屋を開いているから、あの歯だったら1,000 ドルで売れるからね」(イタリア人の名誉のために言っておくが犯人は判ってないので本当は誰だか判っていない。たまたまイタリア人が観光客相手のオミヤゲ屋をやっている人が多いということが、そうした連想を呼びおこしたのだと思うが…!)と美術館の守衛は日本人というのはオカシナ芸術をするものだといった顔つきでしゃべっている。エピード3.、さらに2日目の朝再び美術館から連絡があった。「フィン=鰭が無くなっているようだ」と。「きっと中国人がもっていったのさ…」。もちろん中国人の名誉のためにいうが犯人は判かっていない。でももしそれを食べたいと思う人がいたらそれは…。私だって深夜斧をもって出かけたかもしれないほど立派なフィンだった。勿論、これは保健に入っていない。しかし又、もし入っていたら保健会社はゲイジュツと鮫の関係をどのように金額に換算するのか興味があることも確かである。
 こうしたことが縁となって私はオーストラリアへ度々行くようになった。(印象深いことというのは時には深い縁となるものだ、という実感を込めて)1983年の〈砂漠で橇を引く〉パフォーマンスもこうした契機があって、メルボルン在住の彫刻家ジョン・デイビスと牧川明夫によってコーディネートされて実現することになったのである。
 1983年の5月下旬にグラントの手続きやビザの申請も終わり私はメルボルンへ向かった。周知のようにオーストラリアは日本と季節が逆である。時差がほとんどないのに季節が逆というのは奇妙なものである。肉体の感覚のディティール微妙な違和感を覚える。景観の違いに驚くのではなく、その景観の風や湿度や光りの強弱のようなものが微妙な誤差として肉体が違和感をどこかで訴えているようである。こうした微妙な誤差を抱えたまま野外でパフォーマンスを行うというのはどんなものだろうか。という虚身が5月下旬といえば秋の始まりのメルボルン空港に下りた時思っていた。

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