オーストラリアに行くのにどんなコースで行ったらよいかと尋ねられたら私は躊躇なくシンガポール航空に乗って、成田→シンガポール→パースというコースを薦めたい。何故ならこのコースはまっすぐオーストラリア・デザートの上を飛ぶからである。月に何度も往復するようなハイクラスのビジネスマンならいざしらず、たまの旅行で眼下の風景をみない手はないだろう。特に砂漠とか密林とか大山岳地帯とかがその国にあるとすれば飛行機が最もその美しい風景を提供する。 オーストラリアは日本の約23倍。そのほとんどが赤い砂漠とユーカリのブッシュにおおわれた未使用の大陸である。それはまるで太古の昔に一つの大きな隕石がこの地に衝突して何もかも焼きはらい、出エジプトをしたモーゼの前に広がった荒涼たる神の試練の国を思い出させよう。延々と続き傷口が盛り上がったような赤い山脈の筋や、無数の斑点状の窪みや薄灰緑の影のようにみえるブッシュ帯がただ赤い色彩の中にくり返し点在し続く風景は、四万年に続く巨大な絵画である。
オーストラリアと私の関係は今年で丁度10年目になる。1981年の訪問でそれからはほとんど毎年でかけている。アート・ギャラリーでパフォーマンスを行ったり展覧会を開いたり美術大学でワークショップを行ったり様々である。近年は訪れる度に興味を倍加するアボリジニ・アートの研究とか調査も行うようになったため、これまで以上に随分縁が深くなったものだと思うことがある。 スウィン・ヘデンが西域探検にでかけた動機をきかれたとき〈タクラマカン砂漠で昼寝をしてみたい〉と答えたというエピソードがあるが、それにならえば〈私はいつかこの赤い砂漠を舞台にパフォーマンスを行ってみたい〉という気持ちをその時のシンガポール航空の中で感じていた。それは砂漠というロマンチックなイメージもあるが、それよりも赤にせよ黒にせよあるいは白でもよいが一種のモノクローム性の世界が人の心を魅了する力の源泉としてそこに感じたせいである。それは絵を描くとき白いキャンバスなり紙を前にして一瞬ためらいながらも最初の一筆を入れたいと思うアンビヴァレンツな気持ちと同様の怖れと感動が相交わる欲望と似ていた。敬虔と残酷さが同時に訪れる感情で私は目が痛くなる程赤い砂漠をみつめていた。 |
1981年6月のパフォーマンス
〈柔らかい言葉―鮫〉メルボルン
この作品は1981年にメルボルン市で開かれた日本の現代美術展〈余韻〉のために行われた。展覧会は基本的に彫刻と絵画で構成されていが、この展覧会を特徴づけているのはサブ・タイトルに〈idea from Japan 〉という名前がついているのをみてもわかるように、日本の作家のアイデア(図形、スケッチ、説明書、考え方、ディティールの組み立て方、色彩など)を送ってもらい、メルボルンの美術大学の教師と学生が再現するというものであった。これは純粋に作家の作品が展示されるわけでなく、いはば設計図の再現による日本人作家の作品である。プロデューサーのケン・スカーレットによれば「日本の文化をオーストラリア人が実際の制作過程を通じて学ぶこと」である。日本の作家の選定にあたったのはチコヴァ・ブラスタ、山岸信郎、ステラークの3名であったと記憶している。パフォーマンス・アーティストは私一人であった。パフォーマンスも勿論ある種の形式では再現が充分に可能である。むしろ彫刻や絵画が基本的に他人の手によって再現が難しいものに比べてはるかに再現を可能にする表現手段である。にもかかわらず他の全ての作品はメルボルンの学生や教師や何人かのアーティスト達の共同作業によって再現されたが、私だけは実際のパフォーマンスを行うことになった。一つには私の計画があまりにも複雑な形式というか手続きを必要とするものであり単純に再現できない性質のものだったせいもあるが、私自身にとってはその手続き(ワークショップ)も含めた全ての時間の流れがパフォーマンスにとって重要だと考えていたことが再現を難しいものにしていたように思う。この時アイディアを提出した作家は以下のとおりである。榎倉康二・福原金太郎・原口典之・長谷川俊文・池田徹・石井勢津子・加茂博・鹿沼良輔・川俣正・久野利博・倉重光則・前田一澄・村松正之・中山正樹・沖啓介・大阪日出男・桜井智章・菅木志雄・高木修・高山登・宇旦・田中睦男・砥上賢治・和田守弘・わかなみえ・八木正文 その他私と同行し、展覧会プログラムの他にメルボルンのいろいろな場所でパフォーマンスというか音楽の演奏をしたのは、服部達朗、松本清志、峰岸政春、山口博史、島田漓里、古舘徹郎、村田真である。
〈柔らかい言葉―鮫〉のパフォーマンスはいくつかのWORKが次々と連続して展開されてゆく形式のものである。 1.オーストラリアの漁船をチャーターしてなるべく大きな鮫をつかまえてくる。 2.その捕獲の時のドキュメンタリービデオフィルムを作る。 3.海岸にゆき、その海の生態を観察し記録する。岩石の種類、植物の分布、沿岸の小動物の動態、水質、地形の形状などをフィルムにおさめ、スケッチをする。 4.捕らえた鮫は3本の柱に吊るして自然に腐るまでおく。その状態をビデオか35ミリフィルムに記録する。5.野外でそれまでの記録や調査、パフォーマンスを主題に三日間レクチャー&ワークショップを開く。6.全ての記録を展示する。といった形式であった。 さてその後パフォーマンスは吊るされた鮫を白い大きな布でしっかりと包み、その布の上から鮫の原をまっすぐに切り裂いて全ての内蔵をとりだして、その腹の中にクィーンズ・ランドの海の光景が映っているビデオ・モニターを入れて再び腹を閉じるように縫ってゆくことになった。その間私はかすかな声でアイヌのユーカラを歌い、鮫の血で地面に絵のような記号を描き続けた。時々目をつぶると数百人の観客のいろいろな声がきこえてくる。そして腹の中に縫いこめられた海のビデオが縫った腹の裂け目からかすかにブルーの色と海の音が流れているのがみえている。海に棲む生物が今は海を飲みこんでいるというパフォーマンス。しかし、そして突然、内蔵の中にある水分にモニターがショートしてシューッという煙と共に映像が消えてしまうというハプニングが起こった。腹の中から機械の臭いとモニターが死んだ白い煙がもれてきた。全く偶然、鮫の二度目の死というか鮫の中で文明が死ぬシーンが回想されたのである。ショートしてモニターが壊れることはあらかじめ判っていたわけではない。が、結果的にはパフォーマンスはハプニングによって、一種の完成をみたのである。のちに多くの観客は白い煙が機械の死と鮫の生命の再生をイメージして美しかった、といっていたが皮肉にも私はパフォーマンスを意図していたにもかかわらず、1960年代のハプニングに立ちあってしまったのだという、じくじくしたる思いにとらわれていたことも確かであった。
エピソード2.。パフォーマンスの次の日の朝早く電話がかかってきた。美術館の守衛からである。「今オカシナ男がきてあなたの鮫に何かイタズラをしているらしいので早く来てくれ」と早口の英語でどなっている。現場に急いでゆくと私の鮫はきれいに歯の部分が切りとられてあわれな年老いた老婆のような口になっていた。守衛、「これは多分イタリア人の仕業だろう。イタリア人はオミヤゲ屋を開いているから、あの歯だったら1,000 ドルで売れるからね」(イタリア人の名誉のために言っておくが犯人は判ってないので本当は誰だか判っていない。たまたまイタリア人が観光客相手のオミヤゲ屋をやっている人が多いということが、そうした連想を呼びおこしたのだと思うが…!)と美術館の守衛は日本人というのはオカシナ芸術をするものだといった顔つきでしゃべっている。エピード3.、さらに2日目の朝再び美術館から連絡があった。「フィン=鰭が無くなっているようだ」と。「きっと中国人がもっていったのさ…」。もちろん中国人の名誉のためにいうが犯人は判かっていない。でももしそれを食べたいと思う人がいたらそれは…。私だって深夜斧をもって出かけたかもしれないほど立派なフィンだった。勿論、これは保健に入っていない。しかし又、もし入っていたら保健会社はゲイジュツと鮫の関係をどのように金額に換算するのか興味があることも確かである。 |