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2番目の砂漠の物語−(橇と橋)

 砂漠で橇を引く計画には(橇と橋)というタイトルをつけた。橇は移動であり橋は関係の意味である。橇という北半球文化圏(私の故郷に属する)の古い象徴を南半球にもってきて橋渡しするという感じである。しかし、こうした説明は本当は何の意味ももっていない。むしろブリッジ・アンド・スレッジという言葉がッジの部分で韻をふんでいるのが気に入っていたからである。勿論、橇といい橋といいそれは一種の彫刻作品のイメージでもあり、今回使用するインスタレーションてしては形態的にも興味深いものが私の造形感覚を刺激していたからに他ならないが、やはりあれやこれやと説明するまでもなく、こうしたタイトルの感覚は瞬間的に訪れるものである。それまでバラバラに散っていた思いがや感情が(場)に対して集まりぴったり納まるジグソー・パズルのようなものだ、という方が解かりやすいだろう。

 1.純粋に赤い砂か土だけの砂漠 2.ユーカリの森 3.クリーク(水溜まり ) 4.河のほとり 5.砂漠の中のハイウェイ。という5つのポイントが、ある一地域にまたがっている場所をみつけるためジョン・デイビスと牧川明夫の二人は連日地図とにらめっこをしていた。私はその間、牧川氏の大きなアトリエの隅で長さ5m位のウィルタ族にヒントを得た橇のオブジェの制作にとりかかっていた。橇には釘を使ってはいけないことはウィルタのゲンダーヌからきいていたので、この橇も又釘は一本も使っていない。橇に釘を使ってはいけないという理由は、長時間の旅の場合、起床や障害物によっておこるバウンドに耐えられないからである。全体がゆるやかにギシギシと動くような構造でないと固い障害物に衝突して壊れてしまう。いわば橇というのは地震を想定して建てられる柔構造の建築と似ているといっていいと思う。両端をもつと中央でゆるやかに曲がるのが目安である。5つの場所は私の中のイメージでは風景の基本的な構造があればよっかったのであり、オーストラリアの特有の地形を選択したわけではなかった。多分どこへいっても見られる基本的な地形が(場)の基準である。問題はその普遍的地形のもつ固有のディティールによって引きおこされる身体的反応が(場)とパフォーマンスの関係であるということが重要であった。
 話はちょっとそれるが、このパフォーマンスの計画というかフィールド・ワークに限らず、時々私はふと自分が強度の北方脅迫症にかかっているのではないかと思うことがある。北を起点にあらゆるものの距離を計り、その距離の長さや深さに比例して対応してゆくという図式である。地理的にも歴史的にも文化的にも中心から離れた土地に育ったせいでもあるのだろうか。それとも北方の不可知呪術性を前面に出すことで現代と培抗しようとしているのか。ともあれその全てがカオスのような状態でまるで私自身が一個の磁石であるようにいつも北ばかり向いている。

 オーストラリアの砂漠に辿りついたのは6月の初旬であった。秋の終わりに近く数時間ごとに天候が変化する南極性低気圧が低くたれこめている。メルボルンから北へ約400km。その一帯はバーマーの森と呼ばれニュー・サウス・ウェールズ州の境にある。近くをマリー河という大きな泥のように濁った河が流れ、森の向こうが小さな赤い砂漠のようになっているところである。植物系がいったんそこで切れており彼方は乾燥地帯が続いている。クルーは全部で9人。私の他にジョン・デイビス、牧川明夫、ビデオカメラマンのティム・パイと二人の助手。さらに食事係兼無線係の学生2人もう1人は金髪のホログラフィ・アーティストでティム・パイの婚約者ポーラ・ドーソンという組みあわせであった。
 バーマーの森は深い暗褐色の巨大なユーカリの緑におおわれ、その森のはずれに立つと地平に鮮やかな赤い砂地が広がっている。その赤土の上を灰色のハイウェイが一本定規でひいたように走っている。森の中心にはマリー河がうねり、夕方になるとその岸辺に何百羽という赤い鸚鵡が姿とは想像もできない汚い声で鳴きながら降りてくる。時には赤い雲のようにみえる。ここの砂漠は赤い砂に混ざって小石や小さな乾いたブッシュがところどころに在り風景を穏やかなものにしている。かつて十数年前に北アフリカをヒッチハイクで歩いていた時出会った強烈な太陽に照らされてギラギラと反射していたアフリカの砂漠と違いメロディもあればハーモニーもあるという感じである。まさにオーストラリア・アボリジニが奏でるディジュリデューという日本人の尺八に似た楽器のように息長く優しい風のような風景といったらよいか。それに比べればアフリカの砂漠にはやはりタムタムが似合う。
 パフォーマンス(performance & fildwork) (砂漠で橇を引く)行為は丁度5日間続けられた。橇を引いて森からクリーク、クリークから砂漠、砂漠からハイウェイへと移動してゆくだけである。途中ひとつのクリークからもう一つのクリークまで人工の小さな運河を掘ったり、橇を橋代わりに水たまりを渡ったりしてゆくだけの行為である。その間に食事をしたり、ブッシュの陰で用便を足したり、次の場所を探して地図を広げたりする。単純といえばこれほど単純なパフォーマンスもない。いやパフォーマンスというよりはそれはしばらくすると日常生活に似たものになりつつあった。ティム・パイはその全てを記録し、記録したものを一切手を加えず(作品化)する予定である。こうした単純な行為を毎日繰り返していると不思議なもので一切の時間が止まってしまったような錯覚にしばしば襲われるものである。その止まった時間に耳をすますと、かすかに落ちる木の葉の音や虫の歩く音、風の吹く強さ弱さや方向が自然に聴こえくるのである。それは各々の自然が意識があるかのように思える。木の葉がどんな意識で落ちたいと思っているのかを想像できる。クリークの中で何十年何百年も横たわっている枯れた木がそれでも微細な息をしている空気が伝わってくるのである。かつて何かの記事で読んだことがある。アメリカの作曲家ジョン・ケージが音に出会う瞬間のこと(互いの意識の出会い)と言っていたが、あながちそれは比喩や隠愉的なものでないことを森は知らせてくれる。確かに万物の森羅万象は意識を持っている。多分、人は人の意識に固執するあまり彼らの意志や意識を汲みとれないでるのだ、という実感が森にはある。パフォーマンスもなかなかすてたものでない。まるで禅の修行のような効果さえあるのだから…。これは冗談だがパフォーマンスをしていると時々不思議な経験をすることは確かである。

 こうして長い間夢みていた砂漠でのパフォーマンスは終わった。全くあっけない位時間がすぎてゆき、激しい息づかいも、ドラマツルギーもないまま夢はかなえられたのである。ただ砂漠に立ってみたいという欲望があり、そして実現してみると、これ又、これ程あっけないものもない。パフォーマンスというよりはパフォーマンス的生活を選んだ、短い旅のようなものだったという気がする。実際、こうしたフィールド・ワークを通して言えるのは、パフォーマンスと生きるということの関係の落差である。それを距離といってもよいが、まなざしとまなざしに映る経験の距離はただひたすら遠いことをパフォーマンスは語ってくれるように思う。
 私の橇という名のパフォーマンスはその後彫刻作品としてメルボルンのグリフォン・ギャラリーでの個展とシドニーの州立美術館での2つの個展(1984年)で終わり、(橇を引く)パフォーマンスのドキュメント写真とビデオ・フィルムとドローイングと共に今はシドニーのパワー・ギャラリーのコレクション室にある。橇は永い眠りについたがどんな夢をみているのであろうか。思いすごしかもしれないが、北方少数民族の記憶が南半球にあるという幻影が私にはまぶしい。

(参考)これまで、オーストラリアで行ったパフォーマンス
1981(柔らかい言葉―鮫)
/ナショナル・ギャラリー・オブ・ビクトリア/メルボルン
1983(橇と橋)/パフォーマンス・フォレスト
1984(遺伝子No3)/グリフォン・ギャラリー/メルボルン
(遺伝子No4)/マルデューラ・アート・センター/マルデューラ
(遺伝子No5)/W・Aアートギャラリー/パース
(遺伝子No5)/アート・ギャラリーN・S・W/シドニー
1985(100 日の夜と朝)/パフォーマンス・スペース/シドニー
1986(チープ・メディア・チップスNo3)/ACCM/メルボルン
(チープ・メディア・チップスNo4)/ネクサス/パース
(同床異夢)/パフォーマンス・スペース/シドニー
1988(物質的なものと見ることの自由)
/70オーデンストリート・ギャラリー/メルボルン
1990(アレゴリー・シンボル・パフォーマンス)
200ガートルート/メルボルン
1992(7th アレゴリー)
パース・インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート (PICA)/パース
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