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寓話の終わり―蜜と塩
―ジョン・デイビスとドリーム・タイム―

私がオーストラリアに行くようになってから今年で丁度10年目である。その間いくつかのパフォーマンスといくつかの個展やフィールド・ワークを行ってきた。〈柔らかい言葉―鮫〉〈橇と橋〉〈チープ・メディア・チップス〉〈遺伝子〉など、これまでの私のパフォーマンスのほとんどの原型がオーストラリアを契機として始まり完成した。私のパフォーマンスにもし故郷があるとすればオーストラリアは第二の故郷である。

私が今日のオーストラリアの文化や芸術に直接触れたのはメルボルン在住の彫刻家ジョン・デイビスの作品の印象を通してである。メルボルンに住む美術評論家ケン・スカーレットによれば「オーストラリア人の作品の特徴はいろいろあるが、しいてあげればその景観にある」と語っているように、確かに動物や植物の独特の進化の形態や広大な国土の90%以上を占める赤い砂漠などの景観は訪れるものに強いインパクトを与えずにはおかない。その上オーストラリアには通称アボリジニと呼ばれる先住民族が住んでおり、彼等の独特な世界観(=ドリーム・タイムは今日では広く知られている)が、そうした神秘性もオーストラリアの景観に特別な意味を与えているようである。
 ジョン・デイビスの作品のほとんどは、基本的にはオーストラリア特有のユーカリの小枝によって組み立てられた形態に、厚いトイレット・ペーパーと安物の綿布が張られ、腐食防止剤の意味も含めた自然のタールが塗布されている。作品は形態の暗示するものとタールの調子によってさまざまなイメージを生み出している。それらは単一の作品で構成されている場合もあるが、ほとんどはいくつかの形態の組み合わせ(インスタレーション)によってジョン・デイビスの作品をことさら特徴的なものにしている。不定形な姿は雲や月のかたちを想像することもできるし、立体的に組みあわせられたかたちからは原始的なアボリジニの村のイメージも汲みとることができる。魚に似たものや、キッチン・テーブルに似せた形状の組みあわせからは私達の祖先がかつて岩や土に描いた呪術的な絵画を想像することもできる。重要なのは一つ一つの形態というよりは、それらが集合され配置され、空間の光りと時間の中に置かれた時に見える全体の印象であるのはいうまでもない。ジョン・デイビスのこうした意識というか感覚は、まるで一つ一つの作品がピースが単語のようになっており、その単語を空間という書物の中に書き込んでゆく作業だ。ジョン・デイビスの作品(全体的な印象)が物語的にみえるのはそのせいである。つまり、この物語性がオーストラリアの景観を暗示させてくれるのは一口に言うと、この物語性に結びつく景観に含まれるアボリジニ文化への深い憧景と観察が中心的視点である。かつて私は彼の作品の基調をなすユーカリの小枝による構成とタール・ペインティングの手法を、アボリジニ人達が描く〈透視図絵画〉になぞらえて〈透視彫刻〉と呼んだことがあるが、ジョン・デイビスの作品には明らかにアボリジニ文化の大きな特徴である物語性を含んだ〈透視的〉なものや、緻密なインスタレーションからは北部アボリジニの砂絵の手法の影響がみいだされよう。それは現代と過去の融合、ヨーロッパ文化と先住文化の融合である。こうした彼の態度が最もよくあらわれたのは日本での最初の個展(1983年・INAXギャラリー・東京 )かもしれない。この展覧会で彼は大きな舟のような形をした作品を制作したのだが、この舟のような作品(題名・ロング・ジャーニィ=長い旅)では形態の半分をオーストラリアのユーカリの木枝と彼自身がいつも使っている厚いトイレット・ペーパーで構成し、残りの半分を日本の常滑という小さな焼物の町の海岸で拾った小さな竹や木片で構成した。ここにみられたのはオーストラリアと日本に固有の素材を半分づつ使うというアイディアばかりでなく、素材のもっている固有の文化性の記憶が一つの作品を通してあらわれてくることに目的は隠されていた。この作品が今はどこにあるかわからないが、少なくともジョン・デイビスにとっても、オーストラリアの現代彫刻史の中でも最良の一つではないか、と私は思っている。
 こうして、私はジョン・デイビスのいくつかの作品を通してオーストラリア・アボリジニの世界に魅かれていった。北部のアーネムランド(カカドウ国立公園)地方の動物や人間をモチーフにした〈透視絵画〉をみたり、中央オーストラリアの〈うず巻絵画―点描絵画〉をわざわざ学芸員にたのんで倉庫から出してみせてもらったりもした。北オーストラリアのティウイ地方で今から約200年前まで盛んにつくられたトーテムの呪術的な形態は、それ自体一つとしてはさして取るに足らない意味であるが、配列によってはじめて祝祭的な意味をもつことを教えられた時の興奮は今も忘れることができない。その他、生活用具や儀式用の道具も興味深いものはあったが、ポリネシアからミクロネシアさらには東南アジアからニューギニア文化圏で使われているものとそれほどの差はない。やはり、オーストラリアアボリジニ文化の特徴は絵画と彫刻(トーテム)、それと砂絵に象徴されるだろう。ここでは一つ一つの作品を説明することは出来ないが、それらのほとんどは、物語=ドリーム・タイム・ストーリーによってつくられていることは確かである。現在の、それも他国の人間からみればそれらは一枚のただの絵ということになるが、アボリジニ人にとっては彼等の祖先の物語(ドリーム・タイム)を伝える重要な書物(ストーリー)なのである。換言すれば、オーストラリア・アボリジニ文化を解く鍵は〈ドリーム・タイム〉と呼ばれる言葉に代表される彼等の宇宙感に源流をもっているということであろうか。この独特の宇宙感が何より私をアボリジニ文化に連れていった最大の理由であった。それは通俗的にいえば〈夢の時間〉と訳されている。

 フロイトやユングをもちだすまでもなく、私達は〈夢〉が人間の深層心理と深い関係にあることを知っている。予感的であったり、全く考えられないような風景に出会ったとしても、原因は自らのあらゆる経験の範囲が欲望のランダムな組みあわせをともなってあらわれたのではないか、ということもおよそは予想がついている。目や耳や皮膚で感じたものに加え本能的資質や、微妙に心理的に影響を与えている四季や自然の環境が無数の記憶の断片となって〈夢〉にあらわれてくる。いわば〈夢〉とは現実という定理に対して非定理であると仮定すれば、定理によって動き定理である現実を動かすメカニズムから除外されたのが〈夢〉がおかれた近代社会の状況である。勿論、自我の分析には役立つのは当然としても、現実的な社会のメカニズムの動力として〈夢〉はあまりにも個人的で非合理ゆえに除外されてきたともいえよう。
 しかしアボリジニ人達はこうした非定理的な〈夢〉を、彼らが生きる現実に応用してきたのである。別のいい方をすると、アボリジニの時間の観念は、現実と〈夢〉との二つの時間でできているかのようである。〈夢〉の中には過去と未来が同時に含まれておりそれは経験を伴った同質のものとして現実に混入している。要するにアボリジニ人たちにとってこの〈時間〉とは、現在が過去につながっていたり未来へ続いているという直線的な時間感覚というよりは、過去、現在、未来が円形になっているような時間の感覚である。その円形の時間を結びつけているのがドリ−ム・タイムという。物語なのである。

 1985年の6月のはじめだと思うが、その頃オ−ストラリア大使館に勤務していた文化担当官のアリソン・ブロノウスキィから連絡があり、当時開かれていたつくば科学博に出演する五人のアボリジニ・ア−ティストの世話を頼まれたことがあった。それまで何度かオーストラリアには訪れたことはあったが、実際にアボリジニ人達とつきあったことはなかったこともあり滞在中の世話を引き受けることになった。オーストラリアの北部アーネムランドの砂漠からシドニー経由で直接東京へ来た彼等をまちうけていたのは、近代社会の洗礼だった。まず税関でのトラブル。野性がそのままTシャツを着たような姿で来日した彼等を待っていたのは、滞日ビザを持っていたにもかかわらず成田の税関が彼等をいきなり隔離してしまったことである。待てど暮らせどでてこない。私は迷路のような成田空港の事務所を2時間以上探しまわった結果―狭く薄暗い税関吏の事務室に5人のアボリジニ人がわけもわからず座らされていたのを発見した。私はこの時、随分興奮していたこともあって、まるでテレビの水戸黄門の印籠のようにいきなりオーストラリア大使館とつくば博が出した彼等への招待状を心底意地悪い顔をした税関吏につきつけながら彼等をようやく成田空港の外に連れだすことができたのである。
だが、彼等は別段怒っている風にもみえなかった。何をそんなに怒っているの!という顔さえしている。外国とはそんなものだろう、位にしか思っていなかったのかもしれない。その後ようやくホッとしてニコニコと彼等と握手をしてリムジン・バスに乗り込んだのは出迎えに行ってからすでに4時間近くたってからである。その上バスに乗っている間も、到着したあと六本木のホテルに入ってもいっこうに東京の街に関心があるようなそぶりもみせない。
私は多くの外国人と一緒にこの街で仕事をしてきたが、そんな外国人の態度にあうのは初めてだった。だいたいは、お世辞か皮肉でも東京の街には何らかの反応を示すものだ。彼等のとった態度が極度な緊張のせいかアルイハ全くの無関心だったのかは今でもわからないが、ともかく普通の反応ではなかったのは確かである。

 それから六本木の近くのホテルに私は彼等と共に泊まっていた。ある日の早朝、隣の部屋のディビッド・グリピルルが何やら大声で叫んでいるのが聞こえる。私の部屋の壁をどんどんとたたき、そのうち泣く声も聞こえてくる。
全く!朝早くから一体何が起きたのかと思い、急いでグリピルルの部屋に行ってみるとすでに、そこには他のアボリジニ人達も集まっていて、それも全員輪になってオイオイと声をたてて泣いているではないか。ともかく大声をたてることをやめさせて訳をきくと、「母が死んだ」という。だから皆で母のために泣いているというのである。これは〈夢〉ではないか。〈夢〉の中の出来事で夢の中で泣くことはあっても、目が覚めてからも泣き、それもグリピルルの夢であって他の人の夢に関係しない4人のアボリジニ人達も一緒になって泣くというのは一体どうしたものか。夢は幻のようなもので現実ではないのだ、ということを何度私が言っても彼等は相変わらず泣いているばかりである。そのうち、グリピルルは私の手をつかんで「電話をしなければならない」といいだす始末でさえある。アーネムランドの砂漠の家に電話などあろう筈もない。彼等は電話は何でも伝えてくれるらしいと思っているのかもしれないが、ここにあって向こうにないものが伝わる筈もないではないか。ついに私は少々怒りだし、5人を明け方のホテルのロビーに連れだすことにした。しばらく飲みものをもらったりして落ち着かせてから「何故、夢の出来事で泣くのか」と、私はそれまでどうしても私の概念では理解しえない彼等の行動を問い正した。英語の少しできるボビー・ブヌングルの説明によれば、それは〈ドリーム・タイム〉という彼等の現実を支配している生活様式のためだというのである。〈夢〉は彼等にとっては大変な重要なもので、いろいろな出来事を決めたり、行動の様式を決定する現実が全ての宇宙の中心である、という意味のことをブヌングルはぽつりぽつりと語ってくれた。その現実の中に過去も未来も一緒に存在し、〈夢〉も又その一つ現象である、ということを私がどうやら理解したのは、その事件からズーット後のことであった。私の理解が正しいとは今でも思っていない。しかし、アボリジニ人達は私達と全く違う時間の中で生きていることだけは確かなことだけは感じないわけにはゆかなかった。その後、彼等のパフォーマンスは永代橋の近くある、ギャラリー上田ウエアハウスや国際文化会館や大阪の国立民族博物館などで行われ、シンプルでしてダイナミックな踊りと声と楽器(ステックとデジュリュデュ)によって観客を魅了した。舞踊評論家の国吉和子はその時の印象をこう書いている。「…、彼らのドリーム、言語体系を超えた物語は、さまざまな自然現象や子孫に命を緊ぐ生物の中に受け継がれてゆくだろう」(美術手帳/1985 年/ 9月号)。アフリカ文化のコラムニストである白石顕二は同じ年の「LATINA」の8月号で「さて、そのアボリジニのパフォーマンスだが、ひと言でいえば、自然と共生する人々が創り出す文化の表現は、そこから遙かな彼方の時空に生きるぼくらのパラノイア的な肉体と精神を激しく撃ち、浄化してくれたといえる。観客たちは、本物のカルチャー・ショックを受けたのだ。なまはんかの事象には不感症となっているぼくらでも、自然そのものが人間の動きのなかに宿っていることを知覚するとき、冥府から魂を揺り動かさなでいるのであろう」と賞賛している。賞賛は別としても、アボリジニの宇宙感は、はるかに文明に犯された私達から遠い距離にあって、私達が近代の社会や自我を形成するという理由で失なってしまった距離の彼方に今も生きているのである。である。アボリジニ人達と過ごした数日間に、私は新ためて世界は無数の宇宙でできているのではないか、という想像にひたっていた。

 ウィルタ族のダーヒンニィニェ・ゲンダーヌは、私に北方の宇宙観を一族の物語として語り継ごうとし、オーストラリア・アボリジニのデイビット・グリピルルはその声と踊りで南半球の宇宙観を伝えてくれた。共にこの微細な時間の宇宙観は現在の私が住む東京にはないものである。私はたまたまパフォーマンスという時間芸術とそこに在る私の〈身体〉を通して彼等と出会ったにすぎない。彼等の小宇宙が風のように通りすぎていっただけである。しかし風は又いくつかの記憶の種子を運んできて、私のみえざる細胞にかすかに傷をつけたようである。いつのまにかその傷は膿みはじめ種子が芽をだしはじめている。その2つの種子は私の血を栄養として、北方の種子は蜜のように記憶をたくわえており、南半球の種子は塩のように自然な生命の予感として残されているのだという予感が、私をさらに未知の彼方へつれさろうとしているかのようだ。

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