―塩の上に蜜をふりそそぐと塩は固まり蜜はいっそうその透明度を増す。その塩と蜜(パフォーマンス「塩と蜜」1986年)
―塩と蜜と血を掌でかきまぜて、唇に塗ると生命の匂いがする。目のなかに入れると小さな宇宙の爆発が起こる。耳の中へ入れると時間が止まる。ペニスに塗るとアンドロギュヌスが現れる。
―塩を円形にかたちづくり、その上に子羊の肉を置き、その上から蜜をかけると、子羊の肉は流れる蜜の動きによってよみがえる。
―さらさらとした塩を選んで砂時計ならぬ、塩時計をつくった。やて塩はかすかな空気の湿り気を感じ塩時計は止まってしまった。もう一つは蜜を入れた蜜時計をつくった。これは永遠に動き続けている。もう一つは血でつくった血時計をつくった。この時計は役に立たない。すぐに固まって赤い血が黒くなってしまった。
―ある人が塩と蜜と血のパフォーマンスをみて、三位一体と関係があるのかと尋ねた。そうだ。と答えてやった。塩は天なる父で蜜はその子キリストで血は精霊だと。まんざらでもなさそうな顔その人は帰っていった。この時のパフォーマンスで使われたのは塩と蜜と血の他にリンゴの木にからまっている蛇と蓮の花の浮かぶ水盤だったからよけいにそのように思ったのかもしれない。その上背後には水が流れている。
―塩の中に圧力センサーを入れたところセンサーは感知した。蜜の中に同じセンサーを入れたが動かなかった。そこで蜜の中に血を入れたところ動きはじめた。エンジニアたちはオカシイ!と言い、私も不思議だと思った。今度は塩の中に血を入れたらセンサーは動かなくなった。オカカシイ!不思議ではすまされなくなった。今までのでたらめな言葉や比喩よりりも現実の方がもっと不思議なことがある。
―塩は岩のかたちをしており、蜜は美しい六角形の家でつくらは注射器のかたちをしている。
―塩と蜜と血をそこに置いただけでパフォーマンスの空間はできあがる。運んでそっと置くだけでよい。
―蜜をたっぷりとかけたパンを食べたあとに塩をたっぷりかけた西瓜を食べてぺっとつばをはいたら血のようなつばだった。この日の夜、夢の中で口か、ら蜂が飛んで出た。西瓜の種のようにみえたのは黒い小さな蜂であったのだ、と思っていたら目が覚めた。次の日の朝、残った西瓜をみたらすっかり黒ずんでいた。
―塩は海の記憶を想い出させてくれる。蜜は森の生活を想いおこさせてくれる。私が私のパフォーマンスにおいて実現しようとしているのは、この二つの象徴の融合である。というよりは、融合された二つの素材へ私の血〈身体〉という素材を混入することによってあらゆる現代の象徴を夢みる。なぜなら、記憶の痕跡はみる人にとっては自分たちが属している社会の過去の記憶や文化的感情を思いださせてくれるからである。さらにその延長された先端に海から進化した生命と豊饒な森のかたちがみえてくるからである。第二に、海と森のあいだで生きてきたニンゲンという意味でいえば、ニンゲンはこの二つの存在的記号のあいだでゆれ動いてきた、ということもできる。このことは人間が環境的にも生物的にもアンドロギュヌス的でなければ生きてゆけないことを示すものだ。記号的にいえば、西と東でもよいし、南と北、あるいは男と女でもよい。この二つの地域的、生物的関係を分離することはもともと不可能だったのである。両義性こそニンゲンの文化の中心に立っている。 |